YasujiOshiba

雲の中の散歩のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

雲の中の散歩(1942年製作の映画)
-
DVDイタリア映画コレクション(コスミック出版)。ようやくキャッチアップ。不覚にも何度か涙しそうになる。とりわけ、アルド・シルヴァーニの演じる頑固な田舎の父が事実を知ったときの動揺、怒り、それから平静さを取り戻して優しい笑顔になるところなんて、もうたまりません。実は、この映画なかでこのリアクションは二度繰り返される。繰り返されることで琴線に強く触れてくる。

いいんだよね、アルド・シルヴァーニ。戦後にはフェリーニの『道』(1954)でサーカスの団長を演じ、同じく『カビリアの夜』(1957)ではマジシャンを演じた名優。ぼくが彼の演技に感動したのは、『Anni difficili 』(1947)の薬剤師なんかがあるけれど、そのシルヴァーニが実にいい味を出している。昔気質で、名誉にこだわり、頑固で、強面だけど、心優しい農園主の父は、シルヴァーニが依代となったことで、都会にはない田舎の風景をリアルに、そしてドラマチックに、立ち上げてみごと。

なるほどリメークしたくなるわけだ。ぼくは1995年のリメークでキアヌ・リーブス主演の『雲の中で散歩』のほうを先に見ている。なんだかすごく感動したのだけど、後になってそれがイタリア映画のリメークで、それもブラゼッティによるネオリアリズモの魁のひとつと呼ばれる作品だったことを知る。

それにしてもだ。ジーノ・チェルヴィとキアヌ・リーブスのギャップは大きい。チェルヴィは名優だけど、そんなに美男子じゃない。だから彼が演じるパオロにリアリティがある。朝の目覚ましを、妻にうるさがられ、一人で出かける支度を始めると、子供がおきるから大きな音を立てないでと注意されると、すぐにゴミ箱をひっくり返してしまい、ミルクを温めようとして、鍋の蓋を落として、辛抱切らしてベットから出てきた妻に、仕方ないわね、ひとりじゃなんにもできないのだからと小言を言われる。なんだか安心する朝のシーン。なんだ、日本もイタリアも同じなんだ。

この映画の公開は1942年。第二次世界大戦のさなかでも、日常は続いていた。映画も作られていた。映画館も開いている。そんな映画館で上映された作品には、ヴィスコンティの『妄執(郵便配達は二度ベルを鳴らす)』やデ・シーカの『子どもたちは見ている』がある。いわゆる「白い電話」と呼ばれる軽喜劇が主流の時代に、この3本はそのなかから生まれ、その外へと踏み出してゆくもの。だから、ネオレアリズモの先駆けと評されるわけだ。

そして、とりわけえブラゼッティのこの映画のルーツは、その当時のイタリア映画が密かにそして公然と手本にしていたハリウッド映画にあるのだろう。ある種のロードムービーだという点では『或る夜の出来事』(1934)を思わせるし、この映画の主役のクラーク・ゲーブルの吹き替え俳優が、この映画の主役のジーノ・チェルビなのは、ただの偶然というよりは、意図したものに見えるのだけど、どうだろうか。

それにしても「雲の中の散歩」とはみごとなタイトル。都会から離れて、田舎の暮らしのなかに、まるで「雲の中の散歩」のような夢心地を感じるというわけか。それが夢だとすれば、ジーノ・チェルビが早朝自宅に戻り、ふたたび冒頭のシーンを繰り返す。都会の瓶詰めのミルクを温めながら、鍋の蓋を手にして眩暈を感じて、それを落とす。

この眩暈は、もはや失われた夢の世界と今の世界のギャップから生まれたのだろうか。だとすれば、1941年の公開された劇場の観客は、外地では戦争が行われ、内地では日常の暮らしを送りながら、自分たちが抱えている眩暈を、この作品に投影できたのかもしれない。

なんだかそれは、オリンピックのメダル獲得に歓声を送りながら、コヴィッド-19の感染者急増のニュースに震える日々を送るときの眩暈に、よく似ているではないか。
YasujiOshiba

YasujiOshiba