普段やり取りをしない妹から、「感慨深かったから観てほしい」と連絡が来たので観てみた。
見ていて心地良くはないし、イライラさせられる映画だった。
が、妹が言うように、「感慨深い」というのがこの映画には適切な言葉だと思う。
内容については皆さんが散々レビューされているので、カメラワークやその他気づいたことを思いつくままに書く。
まず、クローズアップやモンタージュが多い撮り方について。
アンドレ・バザンの評を読んだことがある人なら、「おっと?」となるような撮り方の本作。
なぜなら、アンドレ・バザンはクローズアップもモンタージュも現実に即していないということで嫌っていたからだ。
しかし、この映画ではクローズアップを用いる方がより現実に即すことになると思った。
なぜなら、家族との距離は良い意味でも悪い意味でも「近い」からだ。
近さを物理的に表すと本作のようになる。
全体を見渡すことができず、状況が把握しづらい感じはまさに家族の距離感といえるだろう。
そして、モンタージュ。
唐突に場面が切り替わることが多く、「?」と一瞬なる。
カットとカットの間に何が起きたのか観客には分からないからだ。
だが、それがグザヴィエ・ドラン監督の狙いだったのではないか。
誰しもすべての事情に立ち会うことは絶対にない。
誰かから伝え聞くなどして状況を把握してゆく。
だから、頻繁にモンタージュがなされるということは、それだけ情報の分断があるという意味であり、我々は常にカットとカットの間を補完しようとコミュニケーションを試みているといえる。
こうした点から、ドラン監督はヌーベルバーグを下敷きに、本作でカメラワークによる表現の可能性を探っていたのではないかと思った。
確かに、バザンの言う通り、現実ではクローズアップして人を見ることはないし、基本的にはロングショットだ。
だが、それなら防犯カメラなどの定点カメラが最も現実を表すことになってしまう。
それで、本当に映画といえるのか?
そういった監督の映画界への挑戦が垣間見えた。
最後に気づいた点としては、主人公ルイの元カレが異常にリバー・フェニックスに似ていた点。
難なら、若き日のルイがキアヌ・リーヴスに激似。
調べたところ、ドラン監督が影響を受けた作品の一つとして『マイ・プライベート・アイダホ』をインスタに挙げていた。
いや、もう絶対にオマージュ笑
そういうわけで、フランス映画らしく(? 監督はカナダ出身だが)、喜怒哀楽が激しいわけではない映画だった。
現実って上手くいかないわね、と思える作品。
この作品を見てよかったと思えることがあるとしたら、ただ一つ、自分の家族を大切に思うならコミュニケーションを諦めないことと気づけたことだろう。