ゆうがer

セッションのゆうがerのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

話:2.5怖さ:2.0映像:3.0
音楽:3.0(加1.0)演技:3.0(加0.5)時間:3.0
計18/20

メインビジュアル(★)+0.1

この映画は果たして"恐怖映画"としてレビューしていいものなのか…
熟考した挙句、私の好む"現実的で非日常な怖さ"に当てはまっていたため、レビューする事に。

すぐに話に入り込めるような、惹き込まれる演出や序盤・終盤のカメラワークに心が踊った。

全編を通して、"鬼教師"フレッチャーの卑劣っぷりが光っていた。
"上げて落とす"を2回繰り返し、見ている側の精神を揺さぶる。

私は音楽に精通している訳ではないため、教養がなく、細かい事はわからない。
しかし、私も中学生時代にこういった教師に出会った事があるため、妙に親近感が湧いた。
それこそ、物を投げたり、暴言を吐いたりといった行動を当たり前のようにしていた。
作中でフレッチャーは、「偉大な音楽家"チャーリー・パーカー"は、ミスをした際にシンバルを投げられてでも、練習を熱心に続け、頑張って一流になった。」という(ニュアンスの)発言をする。
だから、自分も一流を育てるためには、物を投げるし、それに耐えられた人が一流になる。という考えの押し付けをしているだけである。
言い換えれば、"自分の願望を叶えるためには、どんな事もする"という事になり、指導者として全く向いていない事が伺える。

終盤の演奏シーン。
文字通り"血の滲むような"努力を重ねたニーマンと、狂気じみた高圧的な指導方針を持つフレッチャーによる"セッション"。
(厳密に言えば、指揮者フレッチャーが、ニーマン主体の演奏に乗っかる形)

そのシーンに至るまでの約1時間半は、ニーマンが"ジャズ"と"フレッチャー"と"彼女"と"家族"とどう向き合ってきたのか、また、どういった体験をしてきたのかを見せられ続けてきた訳で、ニーマンは、ジャズのために彼女を失い、フレッチャーから日常を奪った。

失った者と奪われた者による"セッション"は、失った者と奪われた者が、それぞれの時間を取り戻しているかのようだった。
ゆうがer

ゆうがer