カラン

(秘)色情めす市場のカランのレビュー・感想・評価

(秘)色情めす市場(1974年製作の映画)
4.0
大阪の通天閣が見える、ドヤ街と呼ばれる辺りで、売春している母と、母のヒモまで客にする娘には、弟がいる。姉の身体に涎を垂らす知的障害の弟を姉はコンニャクで挟んでやる。いつのまにか性器を商品にすることが当たり前になってしまっている人たちの、抜け出せない日常を描く。


☆疎外

娼婦の話なので、芹明香も宮下順子も花柳幻舟も、事あるごとに露出しやり続ける。タバコを吸いながら。また、酒を飲みながら、あるいは、撒きながら、やる。芹明香は最終的には逆立ちして、股の間に火のついたタバコをお客のおじさんに立ててもらうと、開いた傘の突起、通天閣とショットを繋げる。こうした描写に対して、フェミニストやフェミニズムを引用する批評家は何と言うのだろうか?

この映画の女たちは自身の身体を物象化し、男の庇護を得るための対価にしている。芹明香も、町を出ようという男の申し出を断って、結局、股の間にタバコを挿しているのだ。また、宮下順子は南極一号と交換されていたし、三四郎的な三角関係で発露した男の所有欲のために爆死することになる。

この映画で、女たちは物象化し、徹底的に疎外されている。芹明香はおっさんに腰をつかまれて、ピストンさせられると、吹き出物が目立つ表情を画面に向かって押しつけて、退いて、また押しつける。カメラ目線になっていたろうか、忘れた。女の疎外を映し出すこの映画は、実は、フェミニズムなのだろうか?


☆フェミニズムの欲望

女が男の欲望の対象に同一化しようとすることで自身の身体を物象化するというのが、女の隷属の根源である。男たちは欲望する主体で、女たちは男の欲望の対象として、欲望の客体ではあっても欲望の主体ではない。男だけが欲望し、女は欲望を持てない。男は男であるが、女は女ではない。だから、女は欲望の主体にならなければならない、こうした主張がフェミニズムの中心的な教義であろう。

しかし、これはかなり問題がある主張ではないだろうか。なぜなら、

①『(秘)色情めす市場』とフェミニズムの違いがつかないから。この映画が描く女の物象化は、フェミニズムが問題提起している事態と差異はない。

②フェミニズムが男を誤認しているから。フェミニズムが対立する男たちは、理想化されている。男は男の欲望を所有しているというのは、フェミニズムの側の男に対する誤解であり、むしろ、願望である。男もまた男ではないし、男が男の欲望を持っているわけでもない。そう見えるだけだ。男たちもまた他者の欲望の対象に同一化して、物象化するのである。しかるに、フェミニズムは鏡に向かいあっている可能性があるだろう。

(多分理解できないだろうが、フェミニズムを応援して書いている。(^^))


☆ポルノか?

本作の4Kデジタル復元版は、ヴェネツィア国際映画祭において「1970年代の日本のピンク映画の中で最高傑作の1つ」と紹介されたらしい。また、約1100本あるロマンポルノ作品の中で最高傑作とする映画人も多い、らしい。

しかし、本作はポルノではない。南極一号を見ていて、松井良彦の『追悼のざわめき』(1988)を想起した。きっと大きな影響を与えたのであろう。


Blu-ray。
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