ろく

クラッシュのろくのレビュー・感想・評価

クラッシュ(1996年製作の映画)
3.0
車さえ出ていればなんでもいいや②

そもそもクローネンバーグは穿った監督だ。

なぜ車は欲しいんだろう。便利だから?、生活に必要だから?それなら時速は100キロも出ればいいだろう。法定速度よりも多く出る設定なのもおかしいし、さらにはあの流線型もおかしい。ごつい感じにしているのだって何に必要なんだって気になる。

クローネンバーグは言う。「車は人を殺せるからいいんだよ」って。別に(普通なら)人を殺しはしない。でもいつでも「殺すことができる」。その一面こそ車の魅力なのかもしれない(中学生が拳銃や刀剣に憧れるのとそれは大きく見て同等だ)。いつでも人を「いいように扱える」、それこそ車が持っている「怪しさ」なんだ。

そして死があるからこそ性=生がある。なんて恥ずかしいことを言うのはバタイユと中2だけのはずなんだけどそれをクローネンバーグは愚直に(それは信じられないくらい愚直だ!)信じている。だからこそこの映画は執拗にセックスと死を撮る。それは恰もそうしないと生きる価値が見つからないかと喘いでいるみたいにだ。事故死を執拗に追いかけるイライアス・コティーズ、そしてそれに流されるように「そうだと思ってしまう」ジェームス・スペイダーはまさにその典型だ。死から、自己からしか「生きる」意味を見いだせなくなってしまう。病気だよ。でもその病気って僕らが意外とかかる「病気」でもないかと思って見ていた。だって僕らはいつも自分探しに余念がないじゃないか。生きている意味は、そんな言葉を必死に考えて(考えなくてもいいのに!)生きている反転として死を、あるいは死に準ずるものを(それは疑似的だから余計始末に負えない)模索する僕らははっきり言って阿呆だ。でも阿呆なことを考えるからこそ人間なんだ、またクローネンバーグの詭弁が囁きかける。五月蠅い五月蠅い五月蠅い。

こんな映画をいいと思えなくなるくらいに年をとってしまったので僕はこの映画に断固反対だけど、その一方で若いころの僕はこの映画を見て必死に「生きる意味」を見い出そうとしていた。そんなのないのにね。麻疹のようなものだと思っている。ただいくつになってもその麻疹にかかり続けているクローネンバーグには敬意以外には思いつかない。

※おっと車の話。この映画の一番の見どころはまさに「クラッシュ」だ。そのシーンを見るだけでぞ胸が泡立つ。特に冒頭の事故のシーンはなぜか服を脱ぐホリーハンターとともになんてもんを見せるんだと言う気持ちにもなる。

※セックスシーンはぼかしが大きすぎて何しているかわからない。もうこんな時代だからモザイクにしてまだわかりやすくしてくれよという気になる。決して下衆な気持ちで言っているわけではない。

※車にすっかり乗らなくなってしまった。10年前から自家用車を持たなくなり電車で移動するようになった。そこから僕の性格が変わったのは「車の乗らないから性格が変わった」のか「性格が変わったから車に乗らなくなった」のか定かではない。いずれにしてもディバイスが人間の感覚を変える良い証拠だと僕は思っている(結構ひとりごちだ)。
ろく

ろく