ろく

パプリカのろくのレビュー・感想・評価

パプリカ(2006年製作の映画)
4.5
天上天下筒井独尊③

筒井も今敏も「現実」なんか信じない「作家」だ。

まずは筒井。もともと夢に興味を持ったのは中期ころだろうか。「夢の木坂分岐点」や「遠い座敷」あるいは「脱走と追跡のサンバ」。そもそも筒井は思想書としてマルクスよりもフロイトを信奉していた(そのせいで僕も学生時代マルクスなどの社会理論より、フロイトやユング、あるいはラカンなんかの精神分析の本のが好きになったのは蛇足である)。そこにあったのは「今、ここ」を疑ってみることだ。

一方、今は。作品こそ少ないものの「PERFECT BLUE」や「千年女王」と次々に今の立ち位置が崩れ崩壊する作品を作り出した。そこにあるのは並行世界の感覚かもしれない。「今の自分」が「本当」だなんて誰も証明できないし証明する必要もないじゃないか。そんな言葉が虚耳なのに自分に届いてしまう。

そう、二人とも関心領域は同じだったんだよ。だからこの作品は見事な着地点を見せてくれるんだ。そもそも「夢」とは何か。そう聞かれて答えられる人はいるのだろうか。「夢」は「現実」?「現実」は「夢」?そもそもその区分けこそ意味あるのかしらんって気にまでさせる。

映像は見事の一言である。今までの今敏が思っていた「アニメでないと表現できない」世界が次々に広がっている。その映像は生成され破壊されるを繰り返す。荒唐無稽に見えながらも僕らがいる世界が強固でないことの証明かもしれない。百鬼夜行さながらのシーンに身震いするのは、映像が怖いからではなく、スクリーンを見ている自分が「自分である」ことを信じられないからだ。

そもそも映画を見るという行為が「自分である」ことへの(ささやかな)破壊であるかもしれない。自己同一に何の意味があるのだろうか。僕らは「自分である」ことを脱却したいから映画を見る/溶けるのだ。映画と夢、能動的と受動的の違いがあるかもしれないがともに共通するのは「今、ここ」から脱却する行為なのかもしれない。その先にあるのは落胆か希望か。この作品ではそれでも「今、ここ」に戻ってくる。それは僕達に「落胆でなく希望を持て」と言っていると勝手に解釈する。最後のあの手紙はまさにそれである。それでもたまに辛かったら。「映画に」「夢に」戻ればいいんだ。

夢と現実はどっちも区別がつかない、そう思ったとしても最後は「現実」に向き合う、その強度こそがこの映画の強度だ。

※大好きな作品である。途中多くの「死」を意識させるシーンがあるが、まるで今敏が自分の死を知っていたのではないかという夢想すら抱かせる。現実にはまだ膵臓癌の告知もされていないはずなので(今は膵臓癌でなくなった)それは僕の夢想でしかないのだけど。

※途中の家のシーンはキューブリックの「シャイニング」を思わせてやまない。そういえばキューブリックも現実が崩壊する監督であった。急にこれを見てまたシャイニングが見たくなってしまった。

※美人が不細工と付き合うというシチュエーションはオタクに勇気を与えてくれる。実際はそんなことほとんどないのだけど、それだけでオタクは「俺でも大丈夫だ」と間違った認識を抱く。当然僕もオタクなんでこの映画を見た当時、それに勇気づけられた。それは大きな錯誤だけど。
ろく

ろく