カラン

ブエノスアイレス恋愛事情のカランのレビュー・感想・評価

ブエノスアイレス恋愛事情(2011年製作の映画)
3.5
ジャケ写を見てほしい。2人の頭にハートが形成されているようには、これだけだと見えないかもしれないけど、とても素敵でしょう。2人の背景はウォーリーを探せの都市の人混み。この2人はブエノスアイレスというアルゼンチンの大都市で、胸を痛めていると本人たちは思っており、会ったことも、話したこともなかったし、出逢い系チャットで誰とも知らないままチャットはしたが、それも停電によって打ち切られてしまう。。。

ウォーリーを探せのように、大都市の只中で運命の人を見いだすことはできるだろうか?

女優は、ゲリンの『シルビアのいる街で』(2007)のピラール・ロペス・デ・アジャラさん。

監督と脚本は写真やデザインに興味がある人のようで、ブエノスアイレスの建築物やファッションがふんだんに映り込む。冒頭は日暮れなのか、日の出前なのか、ブルーのグラーデーションに、摩天楼がそびえる。都市開発の乱雑さ、文化的混淆の汚さを、さまざまなファサードを通して映しだす。語り手の男は、都市環境が人の精神に影響を与える。自分は40平米の部屋に一人暮らしなのに息が詰まりそう。こんな風に閉じこもっているのはブエノスアイレスの都市環境のせいで恐怖に怯え、孤独であるから、と語る。





☆自意識の語りと文学の不在

ビル群の風貌をしばらく映してモノローグが続くのだが、すぐに気づいた。この映画は自意識の産物なのだと。肌がちょっと荒れて気にする人はたくさんいるが、周囲は誰も気にしていない。が、どうしても当人は気になる。そんなものでしょう。しかし、それで映画を撮ったらどうなるのだろうか?

自意識が生み出した映画と、面白い映画は違うのだろうか?この映画と、例えば、ゲリンの『シルビアのいる街で』とでは違うものだろうか? 違う、と私は思う。

肌が荒れた。なぜ荒れたのか?と問い、それを映画にするならば、自意識は捻出するだろう、環境が悪い、誰かのせいだと。何もないところに物語を見つけようとするならば、おそらく露出するのはその自意識がどんな自意識であるのかということだけである。伝えたい物語の不在が、ただただ自意識のみを露呈させる。他には何もない。

この映画はブエノスアイレスのビル群の物語を語りたかったのであろう。しかし、物語が生まれる代わりに、ビル群の美しい光景が映ったわけで、別に東京でも上海でも、他のどこでもいいビル群でしかない、そういうことが冒頭のモノローグからとてもよく了解できる。

また、人物の物語はなく、服を着てふらふらして、次々とセックスするが、自分は孤独で不幸だと1人嘆いて荒れている。形だけの人物たちはちょうど劇中のマネキンのようなものだ。犬の世話のバイトの女と、外国語を話す女と、プールで出会った男と、、、等々。そしてある日突然にウォーリーを探せのウォーリーが見つかる。そんな街角のウォーリーはプールの男と何が違うのだろう?映画の結末とエンドロールは違うと主張しているのだが、、、全てマネキン、誰も生きていないし、この映画を観ているからスクリーンに映っているというだけの人物たち。

ショーウィンドウのマネキンを飾り付けている私を通りの人々が見たら?作業中なんだなって思うんだよ。自意識がマネキンをマネキンじゃなくさせているだけ。人は奇妙な優しさから自意識の共同体を作る。分かる人には分かるってやつになるだろうね。本当は冷たいんだよ、仲間意識は仲間じゃない者を排除する。映画の男や女の語る閉塞感の原因は、ブエノスアイレスの都市開発じゃなくて、偏狭と孤独が運命の自意識に物語りを委ねたことでしょうな。

自意識の語りは、物語の不在。物語のない映画は進まない。映画を観ながら、何度も時間を確認した。10分が45分くらいには感じられたが、この尋常ではないテンポの悪さは、圧倒的な文学性の乏しさによると思われる。美しい女優、ファッション、ビル群、螺旋階段、空の青、壁に生えた植物たち。そうした美的形象の美的なショットの連続を、自意識の語りが簡単にガラクタにまで破壊することができるということを、よく学んだ。


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