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バットマンのKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

バットマン(1989年製作の映画)
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DCのコミックを用いてフィルム・ノワールというジャンルのパスティシュをしている。既製品をコラージュする80年代的な感覚に貫かれた作品だと感じた。
スモークや路地、画面の暗さ、派手な銃声に銃からもくもくとあがる白い煙は完全にフィルム・ノワールのそれだった。ドリーアウトや移動撮影でダイナミックに引いて全景を見せるキャメラワーク、ゴッサム・シティの書き割りされた建物たちはノスタルジーに拍車をかける。スクリーン・プロセス感満載の特撮も、当時これを観た大人たちが子ども時代を懐かしむトリガーになったはずだ。

観客は気づいているのに物語世界内のキャラクターは気づいていない(敵が前景にいて、後景にバットマンがいるが、敵は彼の存在に気づいていないなど)描写がサスペンスを際立たせる。

書き割りの景色はレイヤーの存在を観客に意識させ、ある種映画をカートゥーン化している。

画面の暗さと明るさを生かした演出が良かった。ジョーカーが自分を見限ったボスと対峙するシーンでは、ジョーカーの顔は暗くてよくわからないが、全体的な暗みが彼の顔の白さをより印象的なものにする。顔はどうなっているかわからないが、彼の顔が白いということだけはよくわかる。それがとても怖い。
ウェインが父母を殺された光景を思い出すシークェンスでも、ウェインに銃口を向ける男の顔が暗みから明るいところへ出てきた時、その男の笑顔がジョーカーのそれと重なる。

最後の舞台となる教会の階段を登っていくシークェンスは、『めまい』を思わせた。顔をボロボロにされ、仮面をつけた女性は『ロング・グッドバイ』の瓶で顔を殴られる包帯で過剰に顔をぐるぐる巻きにした女性を思わせた。

スーパーヒーローものはやはりメディアと公権力の主題を考える必要がある。メディアも公権力も腐っているが、新聞メディアには善性に目を向けている人が2人いた。だが、テレビはダメだ。簡単にジョーカーに乗っ取られて、彼のテロリズムに不本意ながらもなすすべなく協力してしまっている。これは『スパイダーマン』と真逆だった。『市民ケーン』
にしろ、『スミス都へ行く』にしろ、悪意に満ちた権力と結託するのは新聞だったのに。
警察権力が機能していないのはよくあることではある。だから超法規的なバットマンが必要なわけだ。

彼のダークヒーロー的な振る舞いもフィルム・ノワールのキザな探偵を思わせて、古い映画を観ているようだったが、ジョーカーのかける音楽は80年代的なものだし、昔ながらの懐かしいコミックと、同時代的なものを上手く組み合わせた作品だと感じた。
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