カラン

危険なメソッドのカランのレビュー・感想・評価

危険なメソッド(2011年製作の映画)
3.5
精神分析というのはジクムンド・フロイトがウィーンで創始した。『夢判断』の初版は1900年の出版である。今でも読まれている極めて重要な研究だが、ウィーンでは黙殺され孤立していた。この本を読んで熱烈なフロイト支持者になったのはスイスはチューリッヒにいたカール・グスタフ・ユングだった。両者が論文や書簡ではなく直接に出会うのは1907年とされる。クローネンバーグの映画は『夢判断』の出版と2人の出会いの合間の時期、1904年からスタートする。


☆フロイトとユングとザビーナ

①フロイトに快感原則の彼岸の可能性を示したのは、ユングの患者であり、SM的愛人関係を結び、処女としてユングと性交したザビーナである。つまり、フロイトという権威を1人の女の特異な性体験による思い付きによって相対化しているのである。

②ユングはフロイトの快感原則の偏重と、精神疾患の原因の知的把握が症状の治癒や寛解(医学用語で症状がおさまること)になるという知性主義に対立する考えを抱いていた。(注) 本作では具体的には、ザビーナに医師になるよう勧めたり、密会してムチをぴしぴしやることなのである。元型や集合的無意識といったユングが後に発展させる概念や、ユング信奉者たちが生み出した箱庭療法の方には向かわない。ユングのザビーナへの治療とは職業相談とセックスであるとすることで、擬似化学のオカルトであると何かと批判されるユングの心理学を破壊するのである。

(注)これは一面的な理解である。

こうした①と②は、クローネンバーグによる精神分析の巨人2人への批判なのである。そして精神分析運動史の観点からまったくのデタラメであるわけではない。しかし、①と②による精神分析への批判を、その権威を攻撃するだけで終わらせてしまったら、本作を楽しいと思うのは精神分析について何も分かっていない人だけだろう。こういう展開はトッド・フィールドの『TAR/ター』(2022)と同じで、ハードなものを取り出してきて叩いて叩いて、何も生まないので非常に苛立たしい展開となるのである。

だから、③ザビーナの生とその発露に向かうべきなのは明らかである。ロシアに移り、スターリンと絡み、ナチスによりフロイトよりも早く死ぬことになるザビーナを正面に捉えようとしなければならない。ザビーナを対フロイト、対ユングでしか描かないのは、オットー(ヴァンサン・カッセル)の場合も同じである。オットーやザビーナを真っ直ぐ追いかけるべきなのに、フロイトやユングに唾だけかけた格好で放置するのは、『TAR/ター』と同種のペダンティックなだけのアプローチであり、ストーリーテリングに対する不満だけを残す。


☆撮影

スイスの湖畔がよく画面に映る。技術的に枯れた35mmフィルムによる撮影の透き通った明るい日差しとクラシックないでたちの人物たちを見ていて、トリュフォーの『恋のエチュード』を思い出した。撮影監督はいつものピーター・サシツキー。


☆ギミックとSM

ユングの実験にザビーナが付き合い、ユングの嫁(サラ・ガドン)が質問に答える際に、真鍮か黄銅のパッドに置いた手から、心拍数みたいののメモリを読み取る係になる。この際に装置に電源を入れて機械が回転を始める。小綺麗なだけで『ヒューゴの不思議な発明』(2011)のようにどうでもいいガジェットはクローネンバーグらしいとは言えないような気がする。『裸のランチ』(1991)や『イグジステンズ』(1999)のような偏執が映像になっていない。

SMも同様。ムチを振るう時のテイクバックが大きいだけで、どきどきしない。実相寺昭雄の緊縛の方がいい。(^^)


☆マゾヒズム

フロイトの快感原則の彼岸とは、死の欲動として概念化される。これはマゾヒズムの問題と一緒に概念化された。

①『子供が叩かれる』(1919)
②『快感原則の彼岸』(1920)
③『マゾヒズムの経済論的問題』(1924)

クローネンバーグは、ザビーナのSM趣味をなぜフロイトと結びつける話にしなかったのか?なぜユングとの不倫話に留めてしまうのか。この映画を観た人の大部分が、キーラ・ナイトレイがSMっぽいのをやってるとしかたぶん思わないのは、クローネンバーグが自分の語っている物語の本筋を掴めていないからである。しかしこういったからといって誤解しないで欲しいのは、ユングではなく、フロイトの始めた精神分析の威力である。


☆ヴァンサン・カッセル

画面に映る時間は短いのだが、強烈なインパクトを残す。4人の中で最も興味深い人物だったが、最も時間が短い。



レンタルDVD。画質良し。音質は普通。
55円宅配GEO、20分の16。
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