シゲーニョ

ホステルのシゲーニョのレビュー・感想・評価

ホステル(2005年製作の映画)
3.5
かつて80年代の頃、“スピルバーグ製作総指揮”という煽り文句に釣られて、「ユーズド・カー(80年)」や「ヤング・シャーロック ピラミッドの謎(85年)」、「ニューヨーク東8番街の奇跡(87年)」などを観に、劇場へと足を運んだ方は少なくないと思う。

もちろん、自分もその一人だが、懲りずにゼロ年代にも(スピルバーグ関連ではないが…)同じような経験を繰り返したことがある(笑)。

それが本作「ホステル(05年)」。

実のところ、自分は観ていて痛覚が刺激される映画が大の苦手で、本作がエグい描写続出の「ソウ(04年)」の流れを汲む作品であるということを、ネットや雑誌による喧伝で十分知り得ていたのだが、当時「キル・ビル(03年〜04年)」二部作で、飛ぶ鳥を落とす勢いだったクエンティン・タランティーノが“プロデュースする新作”というアジテーションに抗うことが出来ず、重い腰を上げて劇場に駆けつけることになる…。

(本作は世界中でヒットしたものの、日本での劇場初公開は、本国アメリカより遅れること凡そ1年。たしか都内ではシアターN渋谷の単館上映で、全国でも8館のみの公開だった…)

本作の大まかな粗筋だが…
アメリカ人バックパッカーのパクストン(ジェイ・ヘルナンデス)とジョッシュ(デレク・リチャードソン)は、旅先で知り合ったアイスランド人オリー(エイゾール・グジョンソン)と共に、パリ・ジュネーブ・ブリュッセル・アムステルダムを、ドラッグやガールハントでハメを外すことを目的に横断中。最終地はバルセロナだったはずが、スロバキアに“男の求める快楽をすべて提供するホステル”があるというお宝情報をゲットし、彼の地プラティスラバに向かうことに…。

まぁ、端的に云えば、「美女とエロいことが出来るぞ!」と夢の東欧幻想に股○をパンパンに腫らした、映画「グローイング・アップ(78年)」に出てくるような3人組がその美女たちに騙され、恐怖の拷問の餌食になるハナシだ。

チラシやポスターに踊る惹句「鬼才タランティーノが贈る究極のサディスティック・ホラー」に偽りなく、開巻最初に映し出されるのは、「Quentin Tarantino presents」のタイポグラフィー。
そして、拷問部屋の様子、そのクローズアップ(鈍く光る拷問道具・排水口に流れていくドス黒い血…etc)が、メインクレジットと共にカットバックする。

さて、本作を未見のホラー映画ファンの方には、いきなりのネタバレで恐縮だが、世に“スプラッター・ムービー”という言葉を流布することになった「死霊のはらわた(81年)」のような、視覚的恐怖表現=人体破壊描写の極限とも云える、“ビックリし過ぎて、もはや笑うしかない”グチャドロ演出を、本作に期待してはいけない。

たしかに、本作の血みどろ描写は凄まじいが、かつてのスプラッターのように“驚き”を提供するわけでもなく、ひたすら“リアル”で“殺伐”としていて、日常で感じる痛みを再現するだけで、流血や傷口のみが突出し、物語から逸脱する“痛快さ”があまり感じられない。

メイクが精巧になったぶん、観る人によっては、嫌悪感ばかりが強調される印象だ。
作り物と知りながら、ゴム製の人体が破壊される様に歓声を上げていた、「オーメン(76年)」や「ゾンビ(78年)」、「13日の金曜日(80年)」のような、のどかな残酷賛美とは全く違う(笑)。

なので、「自分には残酷描写やグロテスクなシーンに耐性がある」と自信を持っている人も、覚悟をして観たほうがいい。

個人的にゾクゾクっときたのが、3人組の一人がドリルでヤられる場面。
直接描写はほんの短いワンカットだけだが、何よりゾッとさせられたのは、拷問を終えたドリルの先端に血で真っ赤に染まった肉片がチョコっと付いているところ…。

もちろん、「そんな映画なんて観たくないし、人が切り刻まれる様を観て楽しむなんて信じられない!なんて下劣なの!」と思う向きがあることも重々承知している。
だが、本作「ホステル」には、観る者を不快にさせる描写と並行して、そのストーリーには「無知と驕りが死を招く」という、真っ当な教訓が込められている気がしてならないのだ。

監督のイーライ・ロスは、本作を「アメリカや先進国に蔓延した権力&支配、その濫用について物申した映画だ」と言及している。

序盤、アムステルダムを旅する主人公たちは、お金で性欲を満たしている。
やろうと思えば自分たちの国でもエッチできるのに、それをわざわざ外国に来て買春するのは、他人をお金で支配したいからだろう。自分を知る人がいない余所の土地なら、悪いことをしても問題ない、後ろめたさもないという考えだ。

彼らは誘拐されて拷問を受ける羽目に陥るが、それは自分たちが行なっていたことの裏返しだ。

それを象徴するシーンが劇中に幾つかある。
拿捕されたパクストンが廊下を引き摺られながら見る各部屋の拷問シーンは、その前にジョッシュがアムステルダムの娼館で各部屋を巡りながら、他の客たちが3○やSMなどで欲望を曝け出す行為を覗いていくシーンと、同じようなカメラワークで映し出される。

前者は暴力の視点、後者はSEXの視点だが、共に人間が普段、常識という衣服の下に隠し持つ“欲の象徴”を示している。

そしてアムステルダムの娼館で、玄人童貞のジョッシュがどうすれば良いのか分からずに怖気ついていたように、スロバキアの拷問部屋では、初めて人を殺めるドイツ人の男(ペトル・ヤニス)は最初怯えているが、殺人凶器を手に取り、獲物となった男の怯えた表情を見るや、徐々に興奮して状況を楽しみ始める…。

また、アムステルダムにある「大麻OK!ナンパOK!」のクラブで、ケンカ騒ぎを起こして店の外へ放り出される時、パクストンたちは「オレたちはアメリカ人だぞ!今までしょっちゅうヨーロッパに来ては女をヤリまくった」とクレームをつける。

これは19世紀くらいまでにあった“植民地主義”、その現代版の主張だ。
過去の歴史と同様に、優位な国の国民が、下位の国の国民を「戯具化」していると云えるだろう。
自分たちの国、社会では満たすことのできない欲望が、自国よりも劣っていると勝手に考える地域では満たされると夢想しているのだ。

イーライ・ロスは公開後のインタビューで、こう語っている。
「本作で描かれているのは、イラク戦争で捕虜を拷問する米軍兵と同じ行為だ。アメリカ人は支配への欲求に取り憑かれていると思う」

また別の視点で見れば、本作は、過去の古典的ホラー&スリラーのエッセンスを再構築した作品とも云えるだろう。

かつてのイタリア製ホラー、「タランチュラ(70年)」「ソランジュ 残酷なメルヘン(72年)」などにあったようなムダ脱ぎ要員の女優たち。そして旅行中の若者たちが誘い込まれ、実は“町の住民が全員殺人鬼”だったという「2000人の狂人(64年)」に通じる部分もある。

また、パクストンたちがホステルでの熱い一夜を過ごす時に流れる曲、スニーカーピンプスの「How Do」は、フォークロア・ホラー「ウイッカーマン(73年)」でブリット・エクランド扮するウィローが主人公を誘惑する時に歌った曲のカバー。「ウイッカーマン」も、町の人々が共謀して部外者を痛い目に合わせるハナシだ。

そして、大都会の生活から解放された野郎どもが、これまでの常識が全く通じない閉塞的な場所で恐怖を味わうのは、ジョン・ブアマンの「脱出(72年)」とか、あの名作「悪魔のいけにえ(74年)」を連想させるし、舞台となる東欧にはドラキュラの故郷トランシルバニアがあったように、廃工場の中に隠された拷問部屋は、まるでゴシック様式の古城にある地下牢のようだ。

しかし、その悪の巣窟のご主人様が、狂った伯爵や小さな町の住民ではなく、“営利企業”という点が目新しい。

拷問するヤツらも、ちょっと小金持ちという程度で(罪悪感やモラルの欠如、その度合いは別として)何処にでも居るように見えるし、拷問クラブを経営する連中だって、需要があるから供給しているに過ぎないのだろう…。

劇中でのスロバキア人たちはロシアン・マフィアと組んで、性的植民者たち同士をうまく利用するビジネスを行なっている。

本作「ホステル」は、分かりすぎるゆえに怖いのだ。
観続けるうちに、我々が“肉片”になる可能性も、チェーンソーやボルト・カッターといった“殺人凶器を振り回す”可能性も、同時にあることを否定できなくなってくる。

誰もが「被害者」になる不安、誰もが「加害者」になる危うさを示した、現代の恐怖と云えるだろう。

劇中、映し出される拷問クラブの名刺の表には「エリートハンティング」と書かれているが、裏には手書きで、「ロシア人5,000ドル、ヨーロッパ出身者10,000ドル、アメリカ人25,000ドル」と値段が書かれている。
これは事前に、ネットか携帯電話を介してそのオークションが行われ、世界中で命の売買が行われていることを想像させる。
(劇中、拷問人の1人が「オレは日本人の若い女の子を殺るために、1週間待って5万ドルで競り落とした」という台詞がある…)

つまり、家族との団欒の最中とか、会社の会議の合間に入札し、落札した者がガッツポーズを決める光景が、世界中のどこかであるということだ。
こんな光景は全くおかしなことではなく、実録モノ「ウルフ・オブ・ウォールストリート(13年)」で、デカプーたちが金にモノを言わせて、女性秘書の頭を丸坊主にしたり、豪華ヨットを沈没させていたのと同様の行為に思えてしまう。

当初、イーライ・ロスは、東南アジアに実在する「Murder Vacation」という、人身売買&殺人OKのビジネスを元に、フェイク・ドキュメンタリーを撮ろうと考えていた。
(イーライ・ロスが興味を持ったきっかけは、「1万ドルで見知らぬ他人を銃で撃ち殺せるサービス」を紹介するウェブサイトの存在を人づてに知ったかららしい…)

しかし、リサーチを重ねるうちに、関係者とのコンタクトがほぼ不可能なこと、仮に関わったとしても自分の命に危険が及ぶことに気づき、フィクションのドラマに変更したのだ…。

人間の闇は、時と場所によって、とても深くなる。
本作は人間がどれだけ邪悪になれるかを描いた作品、悪趣味を追求した作品だと正直思う。

だが、徹底的に残酷でありながらも、本作には形勢が逆転するカタルシスもある。

拷問部屋で数多くの殺人が行われるが、刃物を刺す、肉を切り裂くといった直接描写はそんなに多くは無い。
例えば、アジア人の女の子の足の指がボルト・カッターで切り落とされそうになる瞬間、突然場面転換し、ホステルのロビーで、別の女性が足の爪を切るカットに切り替わる。

中盤以降、物語の舞台が拷問部屋になっても、映し出されるのは拷問を受ける側のリアクション、返り血を浴びる小金持ちの拷問人の表情、拷問後の傷跡が主だ。
これは「悪魔のいけにえ」やブライアン・デ・パルマの「スカーフェイス(83年)」でのチェンソー虐殺シーンと同じ編集手法だろう。

ちなみに本作の編集を担当したのは、ジョン・ランディスの「アニマル・ハウス(78年)」「ブルース・ブラザース(80年)」を手掛けたベテラン、ジョージ・フォルシー・ジュニア。
ハナシが横道に逸れるが、匠の技に感心した場面が一つある。
中盤、ジョッシュもパクストンもお互い、女の子に騙されて酔い潰れてしまうのだが、彼らが夢の中に落ちていくように画面もフェードアウトし、しばらくの暗転の後、拷問部屋に連れてこられた、どちらかの一人称視点になる。
この瞬間、拉致されたのはジョッシュなのかパクストンなのか、観る側には全く見当がつかない。

閑話休題…

だが、逆襲に転じた主人公の殺人行為は全て映し出される。
まぁ、敵が東欧系なので、観ていて一瞬「ダイ・ハード」シリーズか、スティーブン・セガールの映画かと勘違いしてしまうのだが(笑)、ちゃんと観客が拍手する場面が用意されていて、何処かで人間の「善性」みたいなものを信じている、監督イーライ・ロスの作家性みたいなものを感じてしまうのだ。

また、スロバキアで暮らす人々の日常に、荒れた生活を想像させるシーンをほとんどインサートしていないのも好感が持てる。

あるとすれば、廃れた路地裏で大麻を吸ったり、ヤクを打つ数人のジャンキー。
そして戦争孤児なのか、金品やタバコ、ガムをせがむ子供たちくらいだ。
ただし、劇中の終盤、1個1ドルくらいのガムがいっぱい詰まったビニール袋1つの価値が、人間2人の命と同等であることを思い知らされることになるのだが…(汗)。

だが、試写を観たスロバキアの国会議員の一人が、「映画を観て、メチャクチャ腹がたった(怒)。スロバキアの国民全員が怒るべきだ!」と酷評。
多分、内戦によって荒れ果て、犯罪率の高い、未文化で未開発の土地として描かれているように感じたのだろう。

イーライ・ロスはこれに対して「アメリカ人の殆どは、映画で描かれているような国がこの世に存在することを知らない。この映画はある地域を非難しているものではなく、他国に対して無知なアメリカ人を揶揄することが目的だった」と主張。
さらに「『悪魔のいけにえ』を観て、イヤな思いをした人だって、その後、呑気にテキサスへ旅行しているじゃないか」と反論したそうだ…(笑)


最後に…

本作「ホステル」は製作費わずか500万ドルながら、アメリカ国内で4730万ドル、全世界で合計8000万ドル以上も稼ぐ大ヒット作となり、その2年後に続編「ホステル2」を、再びタランティーノ製作総指揮の下、イーライ・ロスは世に送り出すことになる。

しかし、アメリカの一部のメディア&ウェブサイトは、「ホステル」シリーズを“トーチャー(拷問)・ポルノ”と呼んでバッシングを行い、また、さらなる検閲をMPAA(アメリカ映画協会)に求める連中までも現れた。

これに対してイーライ・ロスはインタビュー記事でこう、答えている。
「まったくクレージーな話だ。実際に戦争を行い、自国民を戦場に送り込んでいる奴らが、映画の中で描かれる“暴力や死”に文句を言うなんて信じられない。『ホステル』シリーズに目くじらを立てる連中と、ジョージ・W・ブッシュの戦争を支持している連中は同じなんだ。みんな特定のキリスト教を信じている!!」

イーライ・ロスの言う“特定のキリスト教”とは、キリスト教根本主義を主張する「福音派プロテスタント」を指している。

共和党のジョージ・W・ブッシュが、大統領時代、9・11テロに対する報復という建前で、戦争権限を濫用し、世界中から非難されたが、それを国内で支持したのが福音派プロテスタント…。

彼らは、アメリカ共和党の支持母体として機能しているのだ。

たしかに映画で描かれている暴力には、人を酔わせる効果もあるだろう。
(注:スプラッター映画が直接的に発作的・猟奇的な犯罪を誘発すると言っているのではありません…汗)

だが、映画の暴力を禁止したがっている連中が、一方でイラク戦争支持を表明していたというのは、まさに驚愕すべきことであり、映画内の架空の出来事を否定して、本物の死を撒き散らす戦争に賛成票を投じているのだ…。

そこでイーライ・ロスは、悪魔祓いをテーマにしたフェイク・ドキュメンタリー「ラスト・エクソシズム(10年)」をプロデュースする。

その映画の主人公は福音派プロテスタントの牧師…。

アメリカの福音派プロテスタントは、キリスト教の宗派の中でも「悪魔憑き」を信じている人が多いと謂れ、そもそも聖書には、父なる神が作った霊の子供(=天使)が、あることをきっかけに、「悪魔」になったと書かれているので、キリスト教の信徒、「神の存在を信じる」人々は、必然的に「悪魔の存在」を認めなければならない。

つまり、「神様がいるんだから悪魔もいる」という解釈である。だから現代においても、「悪魔祓いの儀式=エクソシズム」が行われているらしいのだ。

だが「ラスト・エクソシズム」の主人公の牧師は、教会では熱弁をふるい、たまに請われてエクソシズムを行うこともあるが、それは「人々が求めるサービスを提供しているだけ」と宣う、超常現象の類いを全く信じていない男だ。

そんな牧師が撮影クルーを引き連れて、自分にとっての「最後のエクソシズム」と称して、悪魔に取り憑かれたとされる、ルイジアナにある狂信的な根本主義キリスト教一家の一人娘を救いに向かうワケだが、一芝居打って「悪魔は追い払った!」と全てが丸く収まるかのように思えた瞬間、とんでもない恐怖に陥れられることになり、映画はなんと、あのルッジェロ・デオダートの「食人族(81年)」に回帰するような展開となっていく。

あくまでも個人的な推論だが、可視化できない「神」、その神からの教え・言葉だという理由づけで、暴挙に出るアメリカの福音派のような人たちに、イーライ・ロスは、自分の製作する映画の中で物申したかったのだろう。

これは「宗教」と関係なく、自分の周り、実社会の中でもあり得ることで、多数派とか、権力のある人、大声を上げる人の意見・考え方に左右され、真実を見失う、受動的な人々に対する警鐘とも云える。

福音派プロテスタントの多くは、80年代にはヘヴィ・メタルにクレームをつけ、90年代にはラップミュージックに攻撃をしたが、自分たちが批判する音楽を真剣に聴いたことなどなかった。

それと同じことが映画にも言える。
トーチャー・ポルノだ、なんだと批判しているくせに、「ホステル」を一度も観てはいないのだ。

イカサマ残酷ドキュメンタリーとバカにされた「食人族」が実のところ、アフリカや南米にある小国・部族を、大国が植民地化・属国化することに警鐘を鳴らしていたように、「ラスト・エクソシズム」も、現代人の身勝手さ、妄信ぶりを揶揄しているワケである。

また、「ラスト・エクソシズム」を福音派プロテスタントが製作した“自虐的なPRムービー”と何故だか決めつける、ほんの一握りの日本人のホラー映画ファンが今でもいるが、イーライ・ロスの祖父母たちはオーストリア、ポーランド、ロシアから移民してきたユダヤ人なので、彼はユダヤ系アメリカ人、つまり、バリバリのユダヤ教徒である。

その証拠に、まだ監督デビューもしていない下働きの頃、レニー・ゼルウィガー主演作「しあわせ色のルビー(98年)」でユダヤ教徒の役を演じているし、「イングロリアス・バスターズ(09年)」で、イーライ・ロスが演じた敵ドイツ兵から「ユダヤの熊」と恐れられるドノウィッツ軍曹は、タランティーノがほぼイーライ・ロスを当て書きして作られたキャラクターで、その造形(凶器のバット含めて)は、イーライ・ロス及び彼の家族・友人たちのアイデアを取り入れて作られている。
(アダム・サンドラーがどうしてもこの役を演じたい!とタランティーノにアタックしたが、そう言った事情・経緯で、泣く泣く諦めたそうだ…笑)