近本光司

ゴジラの逆襲の近本光司のレビュー・感想・評価

ゴジラの逆襲(1955年製作の映画)
3.0
「わたしたちの愛する大阪の街も、世界に誇る大阪城も、ゴジラのためにまったく踏み躙られてしまいました。ひとたびゴジラが暴れ狂うとき、わたしたちはまったく無力であります」。まるでレスリングの試合かのようなゴジラとアンギラスの奇妙な取っ組み合いで、大阪の街は灰燼と帰した。地下の淀屋橋駅に水が流れ込んでくるというのはいいアイデアだったが、あとはあまり印象的な特撮シーンがない。街のシンボルとしてたびたび登場していた大阪城の倒壊も物足りなさが残る(ときは1955年、戦前に焼失した初代通天閣が建て直される前年のことである)。
 大阪の興行主が誘致してこの続編がつくられたと聞く。フィクションのうちで自らの街が破壊される姿を見たいという欲望はあるいは普遍的なものかもしれないが、はたして災厄を実際に体験した者たちが、そんな不届きな欲望をもつものなのだろうか。大戦中は大阪空襲で一帯は焼け野原になっていたはずだ。かつて実際に焼け出された者が、再びその街が破壊される映像を見たいという欲望は、どのような事態を指し示しているのだろう。今度は破壊を免れた大阪城まで徹底的にやってほしいということだったのか。わたしにはよくわからない(9.11の三年後に公開された『デイ・アフター・トゥモロー』というSF映画を思いだす)。
 フィクションという約束ごとだからか、得体の知れないゴジラという怪獣がわけもなくふたたび出現したにもかかわらず、登場人物たちは通底して弛緩した調子を貫いている。四国紀伊にゴジラ上陸と報じられているあいだも大阪のダンスホールは変わらぬ盛況で、つい先日にゴジラが東京で甚大な被害をもたらしたことも、大阪人たちはあまり気に留めていない様子だった。現代のように映像が瞬時に出回らない時代だからこそのリアリティがあるともいえるが、許嫁の若山セツ子も、結婚式が延期になっても花嫁期間が長ければ長いほどいいのよ、と朗らかに受けとめていたのには閉口してしまった。これが戦禍を知る者たちの智慧なのか? 初代の『ゴジラ』と較べると、ここには圧倒的に悲愴感がない。志村喬が再登板して水爆実験の背景が語られてはいるものの、「ゴジラ」シリーズは二作目から子どもも愉しめるエンターテイメントとして舵を切ったということかもしれない。だからこそ終盤には雪山というロケーションも用意して、飛行機アクションものとしてのスペクタクルに力を入れていたのだろう。本作の音楽は佐藤勝。伊福部のテーマを流すだけでも、ただちに画面に緊張が走っただろうに。