シゲーニョ

ロッキー3のシゲーニョのレビュー・感想・評価

ロッキー3(1982年製作の映画)
4.1
あくまでも私見だが…

シルヴェスター・スタローンのフィルモグラフィーを俯瞰で見ると、上がっては落ち、登っては下がりの繰り返しで、まさにエレベーターのような俳優人生。しかもドン底からジャンプアップするきっかけとなるのが、大体「ロッキー」シリーズだ。

一番強く印象に残っているのは、「ランボー」シリーズや「コブラ(86年)」「オーバー・ザ・トップ(87年)」のヒットで、名実共に筋肉&暴力アクション映画のトップスターの座に君臨していたのにも拘らず、90年代に入るや、「オレは現実感のない役ばかり演じていていいのか?」と反省したのか、はたまた、コメディ作品でヒットを連発していたライバルのシュワに対抗したのか、スラップスティック・コメディの「オスカー(91年)」「「刑事ジョー/ママにお手上げ(92年)」に続けて主演し大コケしたこと。

しかしコレで終わりでなく、あくまでも序章に過ぎず、「クリフハンガー(93年)」「スペシャリスト(94年)」「暗殺者(95年)」でアクションに返り咲き、その路線を貫くと思いきや、SFとの相性の悪さを露呈した「ジャッジ・ドレッド(95年)」や、演技派を目指して、デ・ニーロっぽく太ってみたものの筋肉の衰えと思われ失敗した「コップランド(97年)」、さらに子供受けを狙い、「アンツ(98年)」「スパイキッズ3-D:ゲームオーバー(03年)」などに挑戦するも、またもや爆死(笑)。
ゼロ年代には限定公開、果てはビデオスルー作品を出してしまうほどに落ちブレてしまった…。

苦闘すること凡そ15年…ようやく反省したのか、あるいは開き直ったのか、殆どの映画会社に「企画がバカげてる!今さら時代遅れだ!ヒットしない!」と相手をされなかった「ロッキー・ザ・ファイナル(06年)」製作を強引に着手。その結果、スタローンは長きに渡る低迷期から見事に脱出した…。

そもそも第1作目の「ロッキー(76年)」からして、ドン底からのスタートだった。
当時のスタローンはもうじき30歳になるというのに、出演作はポルノかZ級映画ばかり。出産時に顔面の神経に傷を負ったことが原因で、下唇に下垂の症状が残り、言語障害のため台詞は不明瞭、身長170cmという背の低さもあって、参加したほとんどのオーディションは不合格。

出口の見えない暗闇の中にいたスタローンは、たまたま劇場で「イージー・ライダー(69年)」を観た際、監督・脚本・出演を兼ねたデニス・ホッパーに触発され、「自分に合う映画が無いのなら、自分で書けばイイんだ!」と一念発起。自分をモデルに役者を主人公にしたシナリオを書き始める。

ここからは、ほとんどの方がご存知だろうが、TV観戦したヘビー級タイトルマッチ「モハメド・アリ対チャック・ウェブナー戦」に感銘したスタローンは、主人公を俳優からボクサーに置き換え、3日間ぶっ通しで改稿。
出来上がった脚本は大手映画会社ユナイトに気に入られ、「自分が主役を演じなきゃ、脚本は売らない」という擦った揉んだがあったにせよ、無事に映画は完成。公開されるや、製作費の百倍以上の1億2000万ドルを稼ぎ出し、アカデミー賞でスタローンは主演男優賞と脚本賞にノミネート。これはチャップリンとオーソン・ウェルズしか過去に例がない快挙だった。

まさに、アメリカンドリームの体現者となったスタローン。
当然、彼の元には次々と映画の出演依頼が舞い込んでくるが、その殆どが「ロッキー」人気に便乗したボクシング映画か、チープなギャング映画ばかり(その中には、最終的にクリストファー・リーブが演じた「スーパーマン(78年)」の主役のハナシもあったらしい…)。

その中で、スタローンが次回作に選んだのが、実在の全米トラック運転手組合の委員長をモデルにした「フィスト(78年)」。続いて、ニューヨークのスラムで育った自分の生い立ちから構想を得た「パラダイス・アレイ(78年)」で監督業に進出するも、両作共に「ロッキー」に通じる、金もコネも学歴もない若者が、自分の力だけを頼りに世の中に出ていく、良質な出世物語だったのに、ヒット作と呼ぶにはほど遠い結果となってしまう。

この頃から世間では、スタローンは「ロッキー」の一発屋で、間も無く俳優のキャリアが終了するという陰口が叩かれ出し、実生活でも稼いだギャラをノーフューチャーすぎるほど豪快に使い果たし、財布の中身はすっからかん状態。
もはやスタローンにとって、最後の打開策、その切り札は己の分身しかなく、その第二章となる「ロッキー2(79年)」で再起を賭けることになるわけだが…結果、前作には及ばないものの、8500万ドルのスマッシュヒットを記録。スタローンは押しも押されぬドル箱スターとなる。

ここからは勝手な推察になるが、こんな経緯を踏まえると「ロッキー」とは、スタローンという個人の血と魂の叫びの結晶に思えるし、スタローン自身の鬱憤をぶつけた、ある種「虚像」のようにも感じてしまう。

そう思えば、ほぼほぼ順風満帆な時に作られた、本作「ロッキー3(82年)」の製作理由が朧げながら見えてくる。何故ならば、スタローンは当初、本作をシリーズ最終作と考えていたからだ。

公開当時のチラシのキャッチ・コピーには「あの愛と戦いのドラマが、今ここに完結する!」、またポスターには「愛と戦いのドラマは遂に、全世界待望のクライマックスへ!」と、ぶっとい派手な文字が並んでいる。

まぁ、当時のシリーズものは、「猿の惑星」や原作のある「007」はともかく、2部作か、続いても3作目で終えるのが通例だったし、スタローンにしてみれば、「同じ役ばかりやっていても仕方がない、脱皮しなくては!」と思い悩んだ末の結論だろう。

先ず、本作「ロッキー3」でのスタローンの容姿だが、ちょっとプヨっていた前作までとはかなり異なり、体がスリムかつマッチョになっている(うっすら生えていた胸毛もキレイに剃られているのも要注目…)。

これは、本作の撮影終了後、すぐに「ランボー(82年)」がクランクインするため、トレーナーの指導の下、7カ月前から食事の改善と本格的な筋力トレーニングを行い、体脂肪が2.8%を切る徹底的な肉体改造を施した所以であり、つまり、この時のスタローンには、「ロッキー」に取って代わる、今後自分の代名詞となるキャラが担保出来た確信めいたものがあったのでは?と邪推できるし、同時期、メジャースタジオのパラマウントから「ビバリーヒルズ・コップ(84年)」主演の打診があったのも、「ロッキー」と決別することを大きく後押ししたと想像できる。

[注:「ビバリーヒルズ・コップ」は、スタローンが自身のアイデアを次々と投入して全くの別物になってしまったため、製作サイドは撮影2週間前、スタローンにクビを通達。企画はその後、低偏差値アクション「コブラ(86年)」に結実する…]

そして、次に注目すべきは、序盤、世界王者となり成功を手にしたロッキーに対して、義理のアニキなのに誰も敬意を示さないことに苛立って、ヒト騒動起こした末、留置場送りになったポーリー(バート・ヤング)へ向けての一言。

ロッキーは「人生で起こったことは、全て自分の責任だ」と諭すのだ。

「オレとお前は昔からのゴロツキ仲間だろ?なのに、なんでお前だけ…」みたいな出世したロッキーを羨むポーリーの気持ちは痛いほど分かるのだが、ロッキーにしてみれば、「人生の責任は100%自分にある。起こることはすべて、自分自身が招き寄せたことであり、今、自分が幸せでも不幸でも、その原因はすべて自分にある」と言いたかったのだろう。

もし人生がうまくいっていないのなら、それは自分の責任。周りの誰かのせいではなく、すべて自分が悪い。こう考えることで、人は「どうすれば人生を変えることができるのか?」と問い直すきっかけを与えられる。自分のせいにするか。それとも他に原因を求めるか。たったそれだけの違いで、人生はガラリと変わる。だからこそ、自分自身の選択が重要なのだと…。

たぶん、スタローンは第1作「ロッキー」以前以後、そして本作製作を決意するまでの間、自分の選択ミスから生じた失敗や世の中の理不尽さを味わったからこそ、そこから初めて、見えてきたものがあったのだと思う。
だから、先の人生へと進むために、(この時点での)「ロッキー」最終作、その着手に踏み切ったんだと思いたい…。


本作「ロッキー3」を簡単に申せば、前作でついに王者となったロッキーが、人生の絶頂期を迎える。しかし、人生はそんなに甘くない。絶頂から一瞬にしてドン底へ。果たしてロッキーは、いかにしてドン底から這い上がるのか!? まぁ、こんな感じの内容だ。

「ロッキー」シリーズは2作目以降、基本、前作の拳闘シーン、その終盤から始まるのがお決まりで、本作もその例に漏れることなく、前作「ロッキー2」、アポロ(カール・ウェザース)との再戦からスタート。
その大団円を迎えた後、サバイバーが歌う主題歌「Eyes of the Tiger」が聴こえる中、防衛戦の快進撃と並行して、スター選手として大ブレイクしていくロッキーの姿がカットバックする。

ヴォーグやニューズウィーク、GQの表紙を飾り、CMタレントしてもバドワイザー、Nikon、ハーレ・ダビッドソン、アメックスと、前作での原始人のような格好をさせられ、どう考えてもヨゴれ扱いだった時に比べて、CMの質が格段にアップ!
[注:どうでもいいことかもしれんが、それに連れて、試合を観戦するエイドリアン(タリア・シャイア)の見て呉れ、化粧・髪型・服装が、まるで有閑マダムのように、どんどんケバくなっていく…笑]

そんな連戦連勝なうえに芸能仕事もこなしていくロッキーのモンタージュ映像に度々差し込まれていくのが、本作の敵役クラバー・ラング(ミスター・T)、そのハートに“打倒!ロッキー!”の闘志をメラメラ燃やし、練習&試合に明け暮れるシーンだ。

蛇足ながら、野獣のようにイカつく太々しくもあり、やさぐれた見た目とは裏腹に、クラバーはロッキーを打ち破るための練習と研究を絶対にサボらない!!その証拠に、ロッキーの防衛戦は勿論、サンダーリップス(ハルク・ホーガン)とのチャリティー・マッチまでタキシード着用で観に行っている…(!!)

また、前王者アポロの減らず口を上回る、相手を挑発するワードのセンスが抜群で、ロッキーに向かっての「オマエは紙で出来たチャンピオンか?(=これは「新聞・マスコミによって崇め奉られた偶像だ!」と誹謗するダブルミーニング)」を筆頭に、「Dead Meat(死んだ肉め…)」とか「I’m Gonna Bust You Up(くたばっちまえ!)」など、枚挙にいとまがない。

個人的に気に入っているのは、アポロへの「昔の栄光なんてクソ喰らえだ。オレにヤラれる前に枕を抱いてサッサと寝てろ!」。
ただし、エイドリアンに向かっての「奥さ〜ん!そんな根性無しの旦那よりイイ男がここにいるぞ!今晩、オレの部屋に来たら本物の男がどういうものか教えてやるぜ!ヘヘヘ」は、かなり言い過ぎだと思う…(笑)。

ハナシがだいぶ横道に逸れてしまったが…
本作の導入部は、名実ともに成功者となり、その代償として、ボクサーに必要な勝利への執着心・闘争心を知らず知らずのうちに失ってしまったロッキー。そこに立ちはだかる、かつての自分が持っていたスピリッツをまとったクラバー。この二人をカットバック&二画面で映し、対比させることによって、本作の主題を明確に顕しているのだ。

バッグに流れる「Eyes of the Tiger」の歌詞をよ〜く聴いてみると…

先ず冒頭の歌詞、「這い上がって、戦いの道に戻ってきた/やるべきことをやって、チャンスをつかんだ/最後までやりぬいたからこそ俺は今、この場所にいる/ここにあるのは男の誇りと、生き残ろうとする意思だけだ」は、王者となったロッキーの“追想”のように思える反面、ランキングを駆け上るクラバーの“ハングリー精神、心の叫び”を代弁しているかのようにも聴こえてくる。

そして続く歌詞、「時が瞬く間に過ぎ去る中/栄光にしがみつけば情熱を失うことになる/だから、掴んだその夢を手放してはならない/戦い続けなくちゃいけないんだ!その夢を生かし続けるためには…」。
これは、ファイターとしての生きる目標を失いつつあるロッキーの焦燥感、その心境だろう。

そしてサビ部分で、「今、必要なのは飢えた虎の目だ/恐怖と緊張感を味わえる戦いなんだ」と歌い上げるのだが、贅沢し過ぎて骨の髄までユルんでしまった、今のロッキーには到底無理なハナシで、案の定、クラバーとの防衛戦、レフリーチェックでクラバーと向かい合った際、目を合わせることも出来ない、腑抜けぶりを露呈してしまう。

そう、ロッキーが、過去の自分と対峙し、それを乗り越えなければ、真の“人生の勝者”になれないことを思い知る、本作の展開を予兆させる歌詞であり、敢えて書く必要など無いのは百も承知だが、如何にロッキーが“飢えた虎の目”を取り戻すのか、如何に“かつてのスピリッツ”を取り戻せるのかが、本作「ロッキー3」の見どころなのである。


劇中、チャンプになって防衛を繰り返し、幸福の絶頂期にいるロッキーが、ベッドの上でエイドリアンと口ずさむのが
第1作目でも使用された弟フランク・スタローンの曲「Take You Back」。
スパイダー・リコとの試合を終えたロッキーが、フィラデルフィアの夜の町を歩いて自宅に帰る途中で、知り合いの男たちがコーラスで歌っている曲だ。

「君を取り戻したいんだ/なんでこんなに頑張らなきゃいけないんだろう/(中略)今の自分には誰かが必要なんだ/真っ暗な闇が永遠に続いていく…」

これは第1作の時代背景、建国200周年という祝いムードの中、実は失業者が溢れるほどの不景気という暗い影が、ロッキーを含めた若者たちの心を覆い尽くしていたこと、そしてそれに抗うことなく、自ら荒んだ生活を送った結果、恋人も夢も失ってしまった閉塞感を綴った歌だ。

本作で、ロッキーは冒頭の歌詞、その一節「人は言うだろう…。きっとオレを昔へ引き戻してしまうって」を歌うだけで止めてしまう。ここまでしか歌詞を知らないという言い訳、ウソをついて…。

これは明らかにロッキーが、かつてのような行動をとれば、今あるものを全て失ってしまう不安を表しているシーンだ。

1作目のロッキーは「試合の勝ち負けなんて関係ない。世界一の男と戦って、もし最後のゴングが鳴った時にリングの上で立っていられたら、オレは人生で初めて自分がBum(ゴロツキ)じゃないことを証明できるんだ」という台詞でも判るように、自分の生きている証を底辺から必死に這い上がって“掴み取る”ハナシだったし、2作目は妻と生まれたばかりの子供の将来を願って、転落しそうなところを何とか踏み止まり、頂点を“掴み取る”ハナシだった。

しかし、3作目となる本作は、もう“掴み取る”ものなど何も無い、満たされたオトコが“守りに入る”ハナシから始まる。

一度、頂点に上がり美酒に酔いしれた者は、底に落ちたらなかなか這い上がることが出来ない。
スタローンは本作でのロッキーを自分に見立て、自らを叱咤するように、敢えて奈落の底に落とすのだ。

タイトルを失った…。
恩師のXXXも自分の不甲斐なさ故に死に至らしめてしまった…。
そんな豆腐みたいになってしまったロッキーに、喝を入れるために馳せ参じたのが、誰であろう、かつての宿敵アポロ・クリード(!!)

まぁ、ロッキーは1作目からして、生きる目標を比較的すぐに見失うタイプなワケだが(笑)、そんなロッキーの目を覚ます、背中を押す、人生の先に導いてくれる重要な人物が、実はアポロだったりする。

そもそもロッキーが大舞台で戦うことになったのは、「アメリカって誰にでもチャンスを与える国だよな〜。じゃあ、名前も知らないヤツと戦ってみるのはどう?」っていうアポロの閃きがあったこそだし、2作目もロッキーになんとか判定勝ちした後、自分の家に「この偽チャンピオン!」「八百長だ!」という苦情の手紙が殺到。その1枚々々に目を通してカリカリしたアポロが「こいつら黙らせてやる!再戦だ!」という、やや独りよがりなれど、ロッキーをけしかけ、リングへと再び導いた…。

ただし、本作での腑抜けきったロッキーは、やる気スイッチがなかなか入らず、アポロとのスパーリング中、クラバーの強烈なパンチがトラウマとなったのか一方的に殴られ、「今日はお開きだ。明日にしよう」と弱音を吐く。

そんなロッキーにアポロが一喝した言葉が、「There is No Tomorrow!(明日はないんだよ!)」。

これは初鑑賞当時、高三の夏ながら進学に向けての受験勉強に全く身が入らず、毎日プラプラしてた自分には決して他人事じゃなく、スクリーンを通して、あたかも観ているコッチが喝を入れられたような気がして、心が奮い立った覚えがある…(笑)。

そして、恒例となったエイドリアンの最後の“激”を注入されたロッキーは、みるみる戦う男の目を取り戻していく。

蛇足ながら、エイドリアンはロッキーの妻であると同時に、母親的存在でもあったような気がする。
今回エイドリアンは、自分に自信がなくなり、失うことへの恐怖を語るロッキーに対し、叱るように思いをぶちまける。

「このままずっと負けを引きずるの?
いつかみんなは私たちのことを忘れるわ。名誉もお金も消えて、残るのは自分だけ。
期待されている今だからこそ、恐れずに、誰のためでもない、自分のために、自分一人のために戦って!」

この場面は、妻に励まされる男というよりも、母親に叱られているダメ息子って感じに見えてしまう(笑)。
「ロッキー5/最後のドラマ(90年)」にも同じようなシーンがあるが、本シリーズを通して見返すと、ロッキーは結構エイドリアンに叱られている。
ことわざかなんかで“バカな子ほどカワイイ”と稀に聞くことがあるが、エイドリアンから見たロッキーは、きっと“バカな男ほどカワイイ”って感じなのだろう(爆)。

閑話休題…

いろいろあって、かつてのスピリッツを取り戻したロッキーは、ビル・コンティの名曲「Gonna Fly Now」が鳴り響く中、ハードな特訓を日々こなしていく。

その過程でどういうわけか、独特なアポロのファッションを真似しだすロッキー…。
室内トレーニングでは腹だし&ノースリーブ、ビーチではタンクトップとホットパンツ、ハイソックスを二人、お揃いで着用。

陽光輝く砂浜を走りまくるロッキーとアポロ。全力疾走の末、ついにアポロを追い抜いたロッキー。筋肉ダルマの二人の男が、抱き合って再起を喜び合う。波打ち際で歓喜の叫びを上げながら飛び跳ねる二人のスローモーション…。

これを今風に言えば、男同士の絆、“ブロマンス”臭がプンプン漂ってくるシーンだ。
しかし、逆説的に捉えると、次作「ロッキー4/炎の友情(85年)」で主人公が不屈のアメリカンヒーローへと変節したことを鑑みれば、80年代以降、“強いアメリカ”を謳った保守的エンターテインメントが全盛期を迎え、かつての「真夜中のカーボーイ(69年)」や「明日に向って撃て!(69年)」「スケアクロウ(73年)」にあった、アウトサイダー同士の等身大のバディムービー、熱い男の友情ドラマが消費され、“マチズモ全肯定”のような風潮をもたらす、その嚆矢となったシーン、象徴的な存在にも思えてならない…。

まぁ、本シリーズに話を戻すと、次作でアポロがついに命を落とし、エイドリアンさえいずれ死にゆく運命にあることも考えれば、本作「ロッキー3」は(ギリギリ存命だったXXXの件も含め)、主人公の仲間に囲まれて幸せだった“最後の日々”を描いた物語だと言えるだろう。

そう考えれば、やはりスタローンは本作で、
自分の心情を映す“鏡”であったロッキーと決別するつもりの筈だったと思う…。

本作「ロッキー3」は、全米で1億2500万ドルの興収を上げ、これまでのシリーズ中最高のメガヒットになった。
この結果は、前年マイケル・チミノ監督作「天国の門」が大コケして経営不振となり、MGMに買収された製作元のユナイトにすれば、フランチャイズとして絶対に手放したくないワケで、案の定、スタローンに続編製作を打診。

そんな大人の事情もあってか、二つ返事で(!?)了承したスタローンは早速脚本執筆に取り掛かり、ソ連に乗りこんで冷酷な殺人マシーン・ボクサーと戦うという、荒唐無稽でアッパーなストーリーを考案。

これは当時、レーガンがソ連を「Evil Empire(悪の帝国)」と名指しで非難し、第二次冷戦時代に突入した政治的背景と、スタローンが、1作目ではベトナム帰還兵の孤独だった男が突然タカ派に様変わりする続編「ランボー/怒りの脱出(85年)」の撮影中に、脚本を執筆していたことが大きな原因であろう。
[まぁ、あのスーパーマンが「スーパーマンⅣ 最強の敵(87年)」で、東西対立という社会問題をテーマにする時代だったのだから、仕方無いっちゃ言えば仕方無いのだが…(笑)]

かつて、勝利よりも自らの尊厳を獲得することを目指していたロッキーが、4作目にして、イワン・ドラゴとの戦いを経て、とうとう米ソ平和の架け橋にまで進化を遂げる、よくよく考えれば物凄い展開なのだが、そんな「ロッキー4」の劇中で、再びアポロがグッとくる名言を残している。

ドラゴとのエキシビジョンマッチ出場に反対するロッキーが「年を重ねていけば、周りに合わせて自分を変えるしかない」と諭す言葉に対して、アポロは「人間は老いても、中身が変わることはない!」と強く反論する。

そしてこの台詞は、90年代後半、加齢に伴い、自ら変革を求めた結果、失敗作を連発し、“旬の過ぎた俳優”と見做されていたスタローンが、自分に求められていたものを思い出し、カムバックした「ロッキー・ザ・ファイナル(06年)」でリフレインされる。

王者ディクソンとの試合を明日に控えたロッキーを心配する友人のマリーが、勇気づけようと口にするのだ。

「You’re Gonna Prove That the Last Thing to Age in Somebody is Their Heart.
(年を老いても心は変わらないことを証明して!)」

この言葉を初鑑賞時、劇場で耳にした時、「ロッキー4」が大ヒットしたにも拘らず批評家から総スカンを喰らったこと、「ロッキー5」が完結篇のつもりで作ったのにヘンなことになってしまったことも含めて(笑)、スタローンにとって「ロッキー」シリーズは、本当に、本当に…大切な“ライフ・ワーク”だったんだと、つくづく思い知った。

スタローンは自分の内なる心の叫びを、相手に言わせるのがホント上手いというか、心憎い。

そして、これまでの苦渋の人生が無駄では無かったと思える、そこで学んだスタローンの“相手を立てる”イイ人柄が垣間見えたのが、旬が過ぎてスランプになっていた筋肉スターたちを復帰させる再生機関として「エクスペンダブルズ(10年〜)」シリーズを立ち上げたことである…。


最後に…

本当にどうでもいいことだが、そんなこんなで、個人的に本シリーズで大好きな台詞をいろいろ思い出してみたのだが…

「ロッキー4」の敵地ソ連の観衆に向けての言葉「俺が変われたんだから、アンタたちも変われるはずだ…誰でも変われるんだ!」とか、「ロッキー5」の「人生には(アナログ・レコードのように)A面とB面がある」とか、「ロッキー・ザ・ファイナル」での困難や重圧に遭遇した時にどう向き合うかを、息子のロバート、そして自分自身にも言い聞かせた言葉「人生ほど重いパンチはない。それでも、どんなに強く打たれても、ずっと前に進み続けることだ!その先に勝利がある!自分の価値を信じるのなら迷わず前に進め!」など、名言・金言が山ほどある。

だが、やはり一つに絞ると…コレしかない!

それは「ロッキー2」でチャンピオンになった時、TV観戦するエイドリアンに向けての言葉。
そして最終作「ロッキー・ザ・ファイナル」で試合を終え、報告に行ったエイドリアンの墓前での言葉。

「Yo, Adrian! I Did It!
 (エイドリアン!俺はやったぞ!)」



追補:

「ロッキー」シリーズを
愛する方々には、当然ご承知のことと思うが…、

1作目から最終作の「ロッキー・ザ・ファイナル」まで、エンドクレジットの最後に必ず、「This Film is Dedicated to the Enduring Memory of Jane Oliver(この映画をジェーン・オリバーに捧ぐ)」というタイポグラフィーがインポーズされる。

ジェーン・オリバーとは、冷や飯食わされ続けた貧乏&無名時代のスタローンを陰で支えたエージェント。

しかし1作目がアカデミー賞にノミネートされる直前、46歳の若さで急逝。スタローンが作品賞でオスカー像を手にするところを見ることができなかった…。

スタローンにとって、このことは後々まで唯一、心残りだったんだろう。

そして1作目以降、最後までこのクレジットを載せ続けるスタローンの、人柄が窺えるエピソードだと思う…。