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舞妓の上京のotomisanのレビュー・感想・評価

舞妓の上京(1961年製作の映画)
4.0
 「上京」という言葉の湿っぽさは、京が自分を待っているというのぼせの裏にその地に食われゆく自分への哀惜が潜むからだろう。それでも、東京の毒っぽさを振り払い躱して生きる自分に期待を覚えれば、ちょっとはパラダイス気分だろう。

 それに、いま暮らす京都花街がそんなにご立派な場所だろうか?舞妓と聞けば古都の華のような響きでもあろうが、所詮は義理の絡んだ花ばかり。お金持ちの言いなりで生かしてもらう盆の上の造花に過ぎない。そうと思っても、こうして育ててくれたおかあはんへの義理は義理だし、カネで縁を絶った血縁たちの元になぜ戻れるか。
 いままた、おかあはんの容態が芳しくなくなって、やっと十六、舞妓の身で東京まで集金旅行とは。そうと聞かされるまでの汽車の中、靖国に参拝してお父ちゃんに会えるような夢ばかりに気持ちがふくらんでいたところなのに。

 そんな集金先、表の顔は評論家の先生に会社の幹部と大層だが、ひとをおもちゃ扱いの下種ばかり。
 それが世間の裏面なら自分は表街道を歩きたいと思うのかどうか。偶然再会した幼馴染が自分同様、中学を出て働き手の一番下から身を起そうと夜も定時制で学んでるという。
 彼が晴れて芸妓となった自分を名指してくれるようになるためにどれほどの苦労を重ねるのだろう。ならば彼と苦労を共にするために自分は何を切り捨て、踏み越えていかなければならないか、おかあはんへの義理を果たすのに舞妓修行以外の何ができるだろう。
 今日まで歩いてきた道を彼と故郷の運動会以来再びの二人三脚に継いで、この晩の思い出がふたりの今生の別れのように思えたかどうか。これほど力の無い二人に開ける新しい道などどうして付けられようか?

 行き詰まる考えを笑い飛ばすように東京の恩人たちは自分を励ましてくれるけれど、それが信じられないわけではないのに喜べない。
 違う道が確かに誰かのためにはあるのだけれど、それを自分が踏めるとは、と、こころが素直には開けない。いまはおかあはんの顔を見て、あの東京の人をやがて迎えて、そしてご破算になるのはどちらの道になるのか待つほかない。けれども、そんな他力で決まった道をそのときどんなわだかまりの中踏み出すのだろう。こんな帰京の道行きに彼のお母さんがついていてくれるのは本当にありがたい。
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