シゲーニョ

キック・アスのシゲーニョのレビュー・感想・評価

キック・アス(2010年製作の映画)
4.1
本作「キック・アス(10年)」を一言で申せば、自称スーパーヒーローの高校生と殺し屋父娘が、街の悪党を根絶やしするために「血煙街道」を驀進する物語だろうか。

一応の主人公キック・アス。
本名はデイブ・リゼウスキ(アーロン・テイラー=ジョンソン)。
(たぶん)普通以下の高校生で、運動音痴なナードのため、当然女子にモテるはずがなく、本人も「特技は女の子の前で透明人間になれること」と言うぐらい、ちゃんと自覚している。
そんな出口のない悶々とした毎日に嫌気がさし、コミックオタクであることが奏して、ある日スーパーヒーローになることを思い立つ。

「誰もがヒーローになりたいはずだ。
 不可能だって?
 いやいや、コミックは間違っている。
 トラウマとか事故とか、
 宇宙線を浴びなくても
 スーパーヒーローになれる!
 楽天的な考えと純真な気持ちの
 『完璧な配合』さえあれば!!」

まぁ、この決意のちょっと前、ナードの友達と「なぜ、誰もヒーローにならない」をお題に押し問答を繰り返し、最後に「パリス・ヒルトンに憧れてマネする女の子もいるんだから、誰か一人ぐらい挑戦してもいいだろ!」と勝手に納得して終わるような脳天気なオツムの持ち主なので、仕方が無いちゃ、仕方が無いのだが…。

ただし、「目立ちたい!人気者になりたい!(マスクを被っているので素性を明かせないのに…笑)」という承認欲求以外に、街中の陰日向で行われる暴力に「見て見ぬふりをする他者」への懐疑心、世の中への義憤を持ち合わせているのが、大事なところ。

蛇足ながら…
ネット通販eBayで買った「緑のサボテン男」のようなコスチュームを着る場面。

バックに流れる曲が「スーパーマン(78年)」のメインテーマ、ジョン・ウィリアムズ作曲の明朗快活で力強く、雄大なストリングスにソックリで、聴いててちょいと気分がアガるが、その後の鏡に映った自分に向かって「You’re Fxxkin’ Awsome(お前、メッチャ、イケてる!)」と叫ぶ姿が「タクシー・ドライバー(76年)」のトラヴィスみたいで、“鏡の中の自分と現実の自分”に境界を設けていないアブナイ人特有の、絶望的な孤独感から生じる狂気みたいに思えてしまった…(笑)。


普通以下の青年がヒーローを目指す物語は、たしかに間抜けで、観ていてホントにおかしい。
そんな10年ほど前の初鑑賞時、頭に浮んで離れなかったのが、同じような高校生がスーパーヒーローになるスパイダーマンである。

スパイダーマンも、キック・アスと同じく「等身大のヒーロー」だ。
コスチュームを脱げば、見た目「普通の人間」であり、常人と同じように、それなりの苦労がある。
しかし、キック・アスと違って特殊能力があるし、スーパーヒーローになる動機もある。

じゃあ、特殊能力が無く、大した動機も無い人間がヒーローを志したら何が起きるのか。

スパイダーマンの場合、ベンおじさんはピーターに「偉大なる力には偉大なる責任が伴う」と言ったけれども、偉大なる力が無い人間には責任は生じないのか。

本作「キック・アス」はそうした疑問に真っ正直に挑み、偉大なる力が無くともスーパーヒーローを志す以上、どうしても責任は生じるのだということを描いた作品だと思う。

新米ヒーロー、キック・アスが冒険の渦中で出会う、明らかに頭のおかしい人々。極端な正義、極端な悪。洒落にならない暴力。頭がおかしいもの同士の友情。
いきなりナイフで刺され、車に跳ねられるなどボロ雑巾のようになりつつ、それでも自分でもちょっとよく分からない“何か”のために戦う地獄巡り…。

そんな中で、デイブは「なぜ、人は他人を助けないのか、実際にヒーローがいないのか」を理解する。

それは、とある事件で大量の死体を見たこと、そして思いを寄せていたケイティ(リンジー・フォンセカ)と友達以上恋人未満の関係になったことが起因となり、ほんの思いつきが人の生死を左右する重大さや、大切なものを失うことの恐れ・虚しさを実感したからに他ならない。

大袈裟に言えば、デイブは生まれてこの方、17年ほど過ごしてきたボンクラ人生の中で初めて、生きる意味を知ったのだろう。何にせよ、「生きることには責任が伴う」のだと。

ネタバレで恐縮だが、ある少女からの一言「あなたが居なければ、パパは死なずに済んだ…」は、ナイフで胸をグサっと刺された以上に、デイブには相当堪えたハズだ。

そんなキック・アスの先輩スーパーヒーローにあたるのが、マフィアの手により妻を死に追いやられ、復讐のため闇の仕置人ビッグ・ダディとなったデーモン・マクレディ(ニコラス・ケイジ)と、その一人娘ミンディ(クロエ・グレース・モレッツ)。

ビッグ・ダディは娘を寵愛しつつも、常軌を逸した特訓を施し、殺人マシーンことヒット・ガールに育て上げる。それが愛を遠ざける行為だと自覚しているにも拘らずに…。これはアンチノミーを背追い込んだサイコパスのように見える。

さらにビッグ・ダディは四方の壁全てに銃火器を飾った部屋で、たまに趣味のマンガを描いているのだが、その題材はなんと、自分の半生(!!)。やはりちょっと、というか完全に頭がおかしい…。

娘のミンディも父から殺人トレーニングを受けたほかは、一般的な教育を受けていない。
誕生日プレゼントで欲しいのは、人を切り刻めるバタフライナイフだし、「拳銃から発射される弾のスピードは?」と問われれば、「時速1100キロ!」と間髪入れずに即答、正解する。

ミンディは、イカれた父を通してしか外の世界を知らない!!
しかもその世界は冥府魔道…。
だからこそ、子供なら誰でも持つ、「遊び友だちが欲しい」という願望だけで、ミンディはヘタレのデイブに懐くのだ。

これをトラジコメデイと呼ばずして、なんと形容すればいいのだろう。

ミンディことヒット・ガールは、キャッチーな見た目で観客を惹きつけながらも、一転してエクストリームな殺人技で地獄へ引き摺りこむ麻薬みたいなキャラクターだが、その「残酷趣味や言葉遣いはナニ!?」と、劇場公開時、強く批判されることになった。

11歳の女の子がマーベルの最狂極悪処刑人パニッシャーのように、悪人をバンバン殺し、CuntとかDickとかDouchebag(膣内洗浄器…スラングではくだらないことを言うクズ野郎という意味)とか言っているのだから、そりゃ、怒る人もいるだろう。
(注:この年端も行かぬ女の子にヒドい放送禁止用語を連発させた脚本は、ハリウッドの大手スタジオに送られるも軒並み断られ、監督マシュー・ヴォーンは私費を投じて映画化することになる…)

しかし、だいたい題名に「Ass(=ケツ)」と入っている映画に何を期待しているのか、と言いたい!!

公開直後、演じたクロエ・グレース・モレッツは「この映画に怒っている人の気持ちもわかるけど、嫌いなら黙って観なきゃいいだけなのに。ヒット・ガールはディズニー映画のプリンセスじゃないんだから!!」と大変ごもっともなコメントを述べている。

終盤、ヒット・ガールが獅子奮迅の活躍を見せるクライマックス。
そのバックに流れる劇伴が、ジョーン・ジェットの「Bad Reputation(81年)」。
マシュー・ヴォーンがどうしても劇中に使いたくて、何か月も交渉したという逸話のある曲だ。

「古いぜ、オッサン!時代は変わった/女の子だってやりたいことが出来る/だから私もそうやる/悪い評判なんて気にしない」

歌うジョーン・ジェットは、ザ・ランナウェイズ解散後にソロデビューを目指すが、どこのレコード会社からも相手にされず、自主製作でアルバムをリリース。その1曲目がこの曲なのだ。

女の子だってロックできるし、ヒーローになって悪人を殺しまくることもできる。
そう、まさに歌詞の通り、ジョーン・ジェットもクロエ・グレース・モレッツも「I Don't Give a Damn 'Bout My Reputation(悪い評判なんて気にしない)」なのだ!!


繰り返しになるが、本作は赤裸々な暴力に四文字言葉、性的描写など、生ぬるいハリウッド産エンタメ映画では許されない表現が詰め込まれている。

だが、ハッキリ言おう。
「キック・アス」には、ライミ版から連なる「スパイダーマン」やノーラン版「バットマン」よりも、明るいイメージ=「LOOK(画の雰囲気)」がある。

それは、マシュー・ヴォーンが「ロック、ストック&トゥー・バレルズ(98年)」や「スナッチ(00年)」といったガイ・リッチー作品の製作を手掛けた頃に培った“お洒落ながらチョイとスカシ過ぎ”にも思えるビジュアル感覚、「X-MEN:ファイナル・ディシジョン(06年)」や「マイティ・ソー(11年)」で監督オファーされるも、メガホンをとるに至らなかった“苦い経験”から成り立つアメコミへの拘り、その賜物と言えるだろう。

キック・アスたちを救出すべく暗闇の中、ストロボライトに照らされながらも美しくクッキリと映えるヒット・ガールの紫色のウィッグ。
敵アジトとなる高層アパートメント内のオレンジ色を基調とした家具や親玉フランク・ダミーゴ(マーク・ストロング)の衣装…etc。

もちろん、照明を強く当て、彩度が落ちないようにした撮影監督ベン・デイヴィスの色彩設計、その手腕に依るところもあるかもしれないが、ポップな明るさとバイオレンスという、本来ミスマッチなモノが奇跡的に見事、融合しているのである。


そして最も重要な点が、物語が倫理的にきちんと綴られていて、得るものと失うものの“バランス”が慎重に保たれていることだ。登場キャラは皆、自分のしたことに報いを得る。身を切らなければヒーロー活動など出来ないし、大人の責任はもっと厳格なカタチで跳ね返ってくる。

本作「キック・アス」は、ヒロイズムの「尊さ」と「愚かさ」が同時に感得できる、稀有で優れた作品だと思う。


最後に…

多くの方がご存知の通り、本作「キック・アス」はマーク・ミラー原作コミックの実写化と言えるが、「バットマン」や「スパイダーマン」等の“既存の著名アメコミの映画化”といったパターンとは、いささか異なる。

監督マシュー・ヴォーンの長編2作目「スターダスト(07年)」公開直後、映画化の企画がスタート。
その時、マーク・ミラーは僅か3話分しか描いておらず、結末も決まっていなかった。そのため、原作と映画のストーリー作り(脚本)は、ほぼ同時並行で作業されていたのだ。

しかし、原作と映画版では大きな相違点がある。

例えば、ビッグ・ダディは亡き妻の復讐のため、実子を殺人マシーンに育て上げるが、原作では妻は死んでおらず、「話が盛り上がるから!」という冗談にも程がある悪質な理由で、母は死んだと嘘を教えて復讐鬼に仕立てる。

さらに結末。
映画版では意中の娘ケイティとデイブはめでたく結ばれて終わるが、原作ではストーカー扱いされて、ケイティの彼氏に半殺しの目にあわされ、デイブは一人、家に帰る。
その後、彼女からご丁寧に嫌がらせで携帯に送られてきたエロ写真(彼氏にBlow Jobしている画像)で思わず、自慰行為に耽るが、駆け出しのヴィジランテとしてソコソコ以上の成果を収め、新たな人生に踏み出したデイブの心中は満たされていた…という、陰鬱且つ皮肉なエンディングになっているのだ。

と、いうことで、爽やかな後味を残した映画版は、原作での登場人物の狂人度、展開の救われなさに於いて、別物と言ってしまっていいだろう。

原作者マーク・ミラーは、この相違点・改変について、いたって寛容に見える。
(注:本作以後のマシュー・ヴォーンとの再コラボ、「キングスマン(14年)」もコミックの基本設定だけを使った、ほぼ別作品と呼んでいいものに仕上がっている…)
これは「コミックと映画とはメディアとしての特性が異なるもので、物語も結末もそれぞれに適したものがあるべき」という理由かららしい。

では、マシュー・ヴォーンはなぜ、変えたのか?
公開直後のインタビューで「マーク・ミラーの描く暴力は最高だ。しかし映画には観客が“共感できる要素”が必要なんだ」と答えている。

ここからは勝手な推論だが、
監督デビュー作「レイヤー・ケーキ(07年)」でも、犯罪者の苦渋の中に“一抹の純真さ”が隠されていることを描いていたし、「X-MEN ファースト・ジェネレーション(11年)」でも、ミュータントの若者たちが究極の選択を迫られ、大人にならざるをえない、思春期に誰でも経験する“青春の哀歓”を裏テーマにしていたように、マシュー・ヴォーンには、たとえ突飛な世界が舞台であっても“人間の理性は失われない”という強い思いがあるのではないだろうか。

「キングスマン(14年)」中盤、教会での空前絶後のウルトラ暴力シーンを思い出して欲しい。
この果てしないバイオレンスの狂想は、悪の秘密兵器によってもたらされる。

人間の理性を失わせ、互いに無限に殺し合うようにさせる超音波。

そして殺戮の現場となる教会が、アメリカに実在するウェストボロ・パブティスト教会がモデルであることは一目瞭然だ。ウェストボロ・パブティスト教会はLGBTへの差別、人種偏見、宗教差別を恥知らずにも公言する教会で、そのバカバカしい主張には、世界中の多くの人々が不快さを隠さない。

レーナード・スキナードの名曲「フリーバード(74年)」に乗せて、コリン・ファース演じる凄腕スパイのハリーが、次から次へと襲ってくる暴徒たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げと続く…終わることのないウルトラ暴力の応酬は、まさにマシュー・ヴォーンの持つ“義侠心”の表れなのである。

こんな、過剰な正義感と溢れる漢気の持ち主に思えるマシュー・ヴォーンだが、本作「キック・アス」の中で、彼の優しさというか、いい意味で俗っぽいところが垣間見えるシーンがある。

キック・アスが、真夜中のビルの屋上で初めてビッグ・ダディに出会う場面。
ビッグ・ダディとヒット・ガールが佇む背後の巨大広告に描かれているのが、稀代のスーパーモデルとして有名なクラウディア・シファー。実は彼女、マシュー・ヴォーンの嫁さんなのだ。

2002年に結婚し、現在3人の子供をもうけ、幸せで良きパパとなったマシュー・ヴォーンの「変わらぬ妻への愛情」を彷彿させる、ほんの一瞬ながら、観ていてホッコリさせられる絵づらだった…(笑)。