Keigo

奇跡のKeigoのレビュー・感想・評価

奇跡(1954年製作の映画)
4.8
『裁かるゝジャンヌ』で超ド級の衝撃を受けたカール・テオドア・ドライヤー監督作品二作品目。まだ二作しか観てないし、あの蓮實重彦御大が「全作観ないと映画を語る資格なし!」と断言するぐらいの監督だから、自分みたいなペーペーはそれはもう怯んでしまうのだけれど、でもやっぱり凄いんだなと改めて。

『裁かるゝジャンヌ』の鑑賞後と同様、この監督の作品を観た後は作品について何かを言う気が失せてしまう。自分には到底語ることの出来ないような、神聖さや重さのようなものを感じるからだ。どう凄かったのかを的確に言語化することは出来る気がしないけれど、苦心しながら印象を絞り出してみる。


徹底された人物や物の配置と構図、台詞や音の計算された間合いなどにいちいち感嘆させられるが、中でも印象的だったのはあるカメラワーク。

室内のシーンでは基本的に壁側にいる人物を部屋の中央から撮っているようなシーンが多いが、次男ヨハンネスとインガーの娘が話しているシーンでは、カメラが彼らの周りをぐるっと回るように動く。インガーが生き返ることを信じている2人を、カメラワークによって強調しているように見えた。そんなシーンが目白押しだ。

そして宗教や信仰の在り方、宗派の対立や思想の違いなどが割り振られ、端的に表されたような演劇的な登場人物の配置。戯曲を原作としているからかもしれないが、それによってキリスト教の歴史や宗派による対立構造を詳細に知らなくても置いていかれるようなことは無く、割とすんなり理解出来る。しかしシンプルな形に落とし込まれた普遍的な信仰についての物語でありながら、「信じれば奇跡は起こる」というような生半可なお話しでは無かったとも思う。

それが神であれ何であれ、何かを心の底から信仰するということは、同時にその対になる何かを否定することでもあるということ。そして信じるということは、とても難しいことだということ。

たとえこの作品に感銘を受けたとしても、実際に自分が、神を信じれば死者が蘇るような奇跡が起きると信じられるかと言えば、やはりそうは思えない。しかしカール・テオドア・ドライヤーは映画を信じているからこそこんな傑作が撮れたのだということは、信じられる気がする。


【余談】
年末から溜まっていたレビュー17本+αをやっと書き終えた。観てから時間が経った作品について思い出しながら書くのは、何倍も時間が掛かるしめちゃくちゃしんどい…。もうレビューを溜めるのは止めようと心に誓った、2024年の年明けでした。
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