シゲーニョ

エクソシストのシゲーニョのレビュー・感想・評価

エクソシスト(1973年製作の映画)
4.9
先ず、最初にお断りしておきたいことがある。

本作「エクソシスト」には、自分の知る限りで3つのバージョンが在る。

1つは、1973年12月に全米、翌1974年7月に日本で初公開された「劇場公開版」。

2つ目は、1998年に日本では東京ファンタスティック映画祭で上映された、音(SE&ME)を改めて入れ替えた「デジタル・リミックス/25周年記念版」。

そして最後の一つが「ディレクターズカット版」という邦題に反して、原作者で脚色も担当したウィリアム・ピーター・ブラッティが残したがったシーンを、カットした張本人である監督ウィリアム・フリードキンが復活させ、2010年にリリースした「The Version You’ve Never Seen」。

この通称「ディレクターズカット版」を作った理由を問われたフリードキンは、「年をとるにつれて謙虚になったから」と照れながら語っていたが、勝手に補足させてもらえば、フリードキンのキャリアの中で最大のヒット作となった本作はブラッティの原作が無ければ有り得なかったという、今更ながらの謝辞みたいなものなのだろう(笑)。

ただ、自分にとっての「エクソシスト」とは1974年の夏、小四の時に観た「劇場公開版」でしかない。

理由は超くだらないのだが、本作が学校から「鑑賞禁止」と観るのを咎められていたのにも拘らず、その禁忌を破って劇場に勇んで駆けつけた最初の映画だからだ。

「エクソシスト」は日本公開前、「アメリカでは失神者続出!心臓の弱かった老人が鑑賞中に発作を起こして死亡!」「イギリスでは多くの町が議会で上映禁止を決定!」といった報道、煽りまくった宣伝がTVや週刊誌で取り沙汰されたおかげで、自分が生まれ育った小さな町だけかもしれないが、どんなに非道い映画なのか知らないくせして、先生たちが勝手に「観に行っちゃいけません!」と決定。

そして、学校から連絡を受けた劇場側も窮した末に、「小学生以下は保護者同伴なら鑑賞OK」のルールを新たに定めることになる。
(以降、このルールは「グレートハンティング(75年)」といったキワモノ残酷ドキュメンタリーにも適用された…)

そこで当時ビビり〜だった自分は、劇場の入り口で学校関係者が見張っているのでは?と思いながら、恐る恐る、嫌がる母親の手を無理矢理引っ張って、なんとかスクリーン前の座席に座ることが出来た。
(ちなみに、母親と二人っきりで初めて観た映画が本作「エクソシスト」。最後まで抵抗した母親は、鑑賞後ショックを受け、相当気分を害したのだろう。しばらくの間、自分と口を利いてくれなかった…汗)

こんな体験をしたことで、やはり「エクソシスト」と云えば、「劇場公開版」ということになってしまう。
なので、今回のレビューは「劇場公開版」についてだけのみ、書かせて頂きたい…。


本作は、イラクで古代遺物の発掘作業を行なっていたメリン神父(マックス・フォン・シドー)が、メソポタミアの悪魔神パズズの偶像を発見。これにより復活し、世に解き放たれた「悪魔」は、遼遠の地、米国ワシントンで暮らすハリウッドの人気女優クリス(エレン・バースティン)の娘リーガン(リンダ・ブレアー)に取り憑く。この可憐な少女の体内から悪魔を追放するため、神への信仰を失いつつあったカラス神父(ジェーソン・ミラー)と、年老いて心臓に爆弾を抱えるメリン神父が、血も凍るような悪魔との死闘「悪魔祓いの儀式」に挑むというストーリー。

まぁ、ぶっちゃけ初見時、悪魔がなんでイラクからわざわざ遠く離れたワシントンにまで行ったのかを筆頭に、リーガンの遊ぶウィジャボード(日本で云えばコックリさん)がなぜ悪魔を引き寄せたのか、教会のマリア像を冒涜したのは誰なのか、遺体現場でキンダーマン警部補(リー・J・コップ)が発見した粘土の残骸はいったい何を意味するのか等々、意味不明・説明不足の箇所が多少散見されたが、それはブラッティがちゃんと書いた台本から、理由づけのシーンをバッサリと、フリードキンが独断でカットしたから(!!)

フリードキンは公開から暫く経って、そのワケをこう語っている。
「映画は観客の感情を刺激すべきだ。それと同時に、観客に何かを考えさえることも大切だ。原作者の解釈を観客に押し付けたくなかったんだ。私はこの映画で、自己の価値観や精神状態に疑問を抱かせる物語を描こうと考えた…」

例えば、メリンがカラスになぜリーガンが悪魔に憑依されたのか理由を語るシーン。
「悪魔はリーガンだけが狙いではなく、周りにいる人々を絶望の淵に落とすことが目的なんだ。リーガンに恐ろしいことをさせて、他者に恐怖を植え付け、神への信仰を揺るがそうしている」
これは作品の主題を語る上で重要なシーンだが、フリードキンは台詞ではなく作品全体で表現できると信じ、迷うことなくカットした。

フリードキンとブラッティが共に伝えたかったこと。
「悪魔に魅入られるのは自分かもしれない。
 愛すべき家族、親しき友人・隣人かもしれない。
 そう、誰にでも可能性がある…」

ここからは勝手な推論だが、本作「エクソシスト」のテーマは、誰しも心に抱いている「不安」だと思う。

全米での劇場公開時、ほとんどの観客を震撼させたのは、悪魔に取り憑かれた12歳の幼気な少女が十字架をアソコに突き刺す場面だ。

熱心な信徒が多い欧米人にとって、この描写が「ウチの娘も婚前交渉するかもしれない、神様を信じないかもしれない」という不安感・恐怖心を煽らせたことはまず間違いない。
劇中、母親で女優のクリスの撮影中の映画「Crash Course」が、学生たちの反戦デモを主題にしていることでも推し量れるように、公開当時、フラワー・ムーブメント世代の子たちはフリーセックスをするわ、キリスト教からヒンドゥー教に宗旨替えするわという時代背景でもあった。

そして、母親のクリスも離婚して女手一つで育ててきたけれど、娘が反抗期を迎えたのか手がつけられない。そこで医者に相談したら、最愛の我が子の体を傷つけるだけ。次に精神科医を呼んだら、今度は娘にキン○マ握られて悶絶してしまう始末で、現代医学が全く通用しないことにクリスは絶望してしまう…。

因みに公開時、映画評論家や母子家庭支援団体から「シングルマザーに否定的な描写だ!」という批判が相次いだそうだ。
クリスは最終手段として神父にすがるわけだが、神父は英語で「Father」。つまり、「シングルマザーには子供は育てられない!父親が必要だ!」ということを暗喩していると、クレームを付けたらしい。

しかし、最後の頼みの綱として期待される神父たちも、実のところ不安に苛まれている。

若いカラス神父には、独り暮らしで足が不自由、さらに脳腫瘍を患う貧しく年老いた母親がいたのだが、ろくに面倒を見てやることも出来ないうちに天に召され、それを気に病むカラスは神への信仰を失いかけている。
演じるジェーソン・ミラーの映し出された表情には、常に暗い陰が浮かんでばかりだ…。
そしてその傷口に塩を塗るかのように、リーガンに取り憑いた悪魔はカラスの母親の声を真似て、「お前はヒドい子だねぇ〜。なんでワタシをこんなところ(=精神病院)に収容させたんだい?」と誹謗する愚劣な言葉を容赦なく浴びせかける。

また、カラスの要請でやって来た老神父のメリンも、心臓に爆弾を抱えている。心不全を患っているのか、常にそれ用の錠剤が手放せず、薬を飲んで苦痛を落ち着かせるメリンの顔には、死への不安が張り付いているように見えてしまう。

余談ながら、メリンを演じたマックス・フォン・シドーは当時44歳。
老け役にするために、メイクアップの巨匠ディック・スミスが毎回3時間かけて特殊メイクを施したにも拘らず、スウェーデン紳士らしく一つも文句を言わず、終始穏やかに現場に臨んだそうだが、一度だけ、シドーが茫然自失して己を失う瞬間があったそうだ。

それは、化け物のような醜い少女と化したリーガンと初めて対峙するシーン。
本番直前まで、愛くるしい態度で接してくれたリンダ・ブレアーが、カチンコが鳴り終わった瞬間、発した台詞が「テメエのオフクロは地獄でフェ○チ○してやがるぜ!」

それを聞いた途端、マックス・フォン・シドーは顔面蒼白になり、自分でカメラに向かいカットを掛けた。
「すまない…。ちょっと取り乱しそうだ…」
以降、シドーはリンダ・ブレアーのどんな台詞にも動じることはなかったと聞く…。

まぁ、このように本作「エクソシスト」の主要キャラその誰もが、巨大な不安に押しつぶされる寸前状態。
しかし、そんな諸々の事情にはお構いなしというか、登場人物たちの不安を描き出すだけでは飽き足らないのか、監督フリードキンは、観る側の不安を更に助長する描写(外的要素)を、矢継ぎ早に盛っていくのだ。

のっけから容赦がない。
冒頭、メリンが突然馬車に轢かれそうになったら、乗っているのは凄〜い顔したオバサン!
パズズ像と対峙する場面も、異形の像に圧倒されてたら、後ろで恐ろしい顔した反政府ゲリラのオッサンがメリンをジッと睨んでいるし、その脇では野良犬が大ゲンカ…。
まさに吉野家の牛肉の量が2倍になった「超大盛」みたく、恐怖×恐怖、怖ろしさがマシマシになっていく。

その「超大盛」状態の中でも最強なのが、悪魔に憑依されたリーガンの部屋に母親クリスが入っていくシーン。

ドアを開けるとポルターガイスト現象で窓にレコードや小物が嵐のようにぶつかり、娘を見れば、「キリストとフ○ックしろ!」とか言って十字架をアソコに突き立ててる!その後、信じられないような残虐行為が展開され、終いにゃ娘の首がギュリギュリギュリ…。

もはや吉野家の「超大盛」なんか遥かに超えて、ゲームの「鉄拳」風に喩えるならば「10連コンボ」!!

しかも、人体が変形する音とか、もの凄い音響の力が後押ししている。

この場面以外にも、虫の羽音のような「ブーン」という不気味なノイズが聞こえてくるメリンがバズズの偶像を発見するシーンなど、本作では耳を塞ぐような轟音だけでなく、聴く者の不安感を煽る、通奏低音のようなSE&MEが度々流れる。

これらは、サウンド・デザイナーのゴンザロ・ガビラが、ビーグル犬の唸り声、屠殺場で殺される豚の悲鳴、ミツバチの羽音、箱の中を走り回るハムスターの足音、痙攣した女性の呻き声などを録音し、それぞれ様々なピッチで調整・アレンジしたものだそうで、アカデミー音響賞を獲得したのも頷ける、ホラー&オカルト系映画史上、“最恐”の仕上がりだと個人的に思う。

[注:ただし初鑑賞時、擬似4chのおらが町の映画館ではあんまり伝わってこず、ハッキリと音の凄さを自覚したのは1998年の「デジタル・リミックス/25周年記念版」を渋谷パンテオンで観た際。また2010年の4Kリマスター版=通称「ディレクターズカット版」は、さらにエッジが立って耳に突き刺さる感じになっていて、フリードキン自身も試聴時、「えっ?こんなところに効果音入れたっけ?」と驚いていらっしゃったそうだ…]

また、束の間の安息を与えられたような静かなシーンでも、観客の不意を突く“恐怖”を平気でブッ込んでくる。

奇行が目立つようになったリーガンが、病院でアーティアリアグラム(動脈造影図)検査を受ける場面。
リーガンの首に動脈カテーテルが挿入されると、ドス黒い血がピュー!ピュー!と2回、吹き出す!!
誰しも目を背けずにはいられない、正直に申せば、初鑑賞時、観ていて最も慄いたシーンだ。

さらに脳波計で脳の断面図を撮影するシーンでは、写真を撮るたびにガン!ガン!ガン!ガン!ガン!という、聴いていて打ち震えるような地響きが劇場いっぱいに鳴り渡った…。

さて、本作「エクソシスト」はこのように映像は勿論、音も合わせて、全力で観客を地獄に叩き込みに来る。
そして監督フリードキンは、そんな地獄を描くにあたって、俳優たちにも極限状態を強要した。

例えば、静まり返ったセットで予告なしに突然銃をブッ放し、完全に素で椅子から飛び上がったキャストの表情をそのままフィルムに焼き付ける。
これはリーガンとの問診時に録音したテープを、部屋で一人聴いているカラス神父のシーンのことだ。
突然鳴り響く電話のベルに反応したジェイソン・ミラーが驚愕の表情を見せたのは、フリードキンが予告なく、30センチほど離れた背後から突然ショットガンを発砲したから。
この時、フリードキンは悪びることなく「だって、本物のリアクション、本当に驚いた表情を撮りたかったんだもん!」とシレッと言ったらしい。

だから本作に出演した俳優の多くは、「この映画では演技する必要がなかった」と述べているのだ。

劇中、クリスがリーガンに平手打ちされ、床に叩きつけられるシーンがある。
この時のエレン・バースティンの叫び声と怯えた表情は決して演技ではなく、マジのリアクション。
なぜなら彼女の背中につけられたハーネスを、フリードキンが「殺すぐらいの気持ちで思い切り引っ張れ!」とスタッフに指示したから。

しかもフリードキンは1回では満足できず、2テイクやらせたらしく、その2度目の際、バースティンは「もう1回やったら絶対ケガする!」と訴えたが、フリードキンは「今度はやさしくやるから〜♪」と適当に答え、その裏ではスタッフに「もっと思い切りやれ!」と目で合図を送り、結局、エレン・バースティンはこの撮影で脊髄損傷、その傷は今現在も完治していないらしい…。

また、演技経験のないホンモノの神父ウィリアム・オマリーが瀕死の○○○に告解を与えるシーンでは、15テイク以上もカメラを回した。
満足できないフリードキンは感情を引き出すため、最後のテイク直前にオマリーの頬を平手打ちし、その動揺した姿のままで迫真の演技をさせた。この場面で「汝に赦免を。父と子の聖霊の名において」と言いながら、今にも泣き出しそうなオマリーの右手が震えているのは、演技ではなく、こういう経緯があったからだ…。


ともあれ、この限界を超えたフリードキンの鬼畜演出が「エクソシスト」という、歴史に残る恐怖映画を生んだのは間違いないだろう。
特殊メイクを担当したディック・スミスみたいに「現場は大変だったけれど、フリードキンに追い立てられたお陰で、最高の仕事が出来た」と感謝している人もいるくらいだ(笑)。

フリードキンが監督に選ばれた理由は「誠実で公正な監督」に思えたかららしい。
カトリックではなく、「悪魔祓い」という題材に偏見を抱かず、途方もない話にドキュメンタリー的な「真実」を与えられる監督でなくては作品が成功しない。
そう思った原作者のブラッティは、フリードキンにアカデミー監督賞・作品賞をもたらした「フレンチ・コネクション(71年)」を観て、ワーナーを口説き落とした。

ドキュメンタリー畑から映画界に入ったフリードキンは「この映画もドキュメンタリーのようにリアルに描きたかった」と強く思い、事前に出演者と入念なミーティングをし、演出意図を理解させたと述懐している。

十字架での自慰行為のシーンは、リンダ・ブレアーと二人だけでふざけながら、彼女がその気になるまで、ジョークを飛ばしつつリハを続けたらしい。

「彼女が演じられたのは自分がいたからだ!
 リンダと私の間には信頼関係があった…」

ここからは記すことは勝手な推論になるが、ドキュメンタリータッチにしろ、コメディータッチであっても、フィクショナルな映像(映画・ドラマ・CM・ミュージッククリップ…etc)を作る上で、工業製品の設計図や料理のレシピといった手引き書のようなモノは一切存在しない。

脚本や絵コンテなどを基に、監督が自分のビジョンを“言葉”で伝えるしか術はないのだ。つまり、監督のコミュニケーション能力の優劣が、作品の出来不出来を左右しかねない場合もあり得る。
自分が考えるに、フリードキンはそのコミュニケーションの仕方が、かなり横暴というか、一方的過ぎたということだろう。

そして多分、フリードキンは人間という生き物を信用していないのだと思う。だから他者に対して、常に脅すように「100%以上の力を見せろ!死ぬ気でやれ!」と檄を飛ばすのだろう。

自分がここまでレビューで書いてきたことの多くは、劇場公開から半世紀近くの間に見聞きした噂・ゴシップがほとんど。だから事実に反することもあるやかも知れない。

しかし、本作「エクソシスト」は何度繰り返し鑑賞しても、心のタカが外れた者(←褒めてます!!)しか作れない映画に思えてならないのだ。

劇中内の映画監督バーク(ジャック・マッゴーラン)が、クリスの自宅パーティーで泥酔し、スイス人の執事を執拗になぜ、「このナチ野郎!やーいナチ、血に塗れたナチのブタめ!」とイジメるのか。
そのパーティーの席上で、リーガンが宇宙飛行士の客になぜ、「宇宙で死ぬよ」と予言し、その後なぜ失禁したのか。
悪魔に取り憑かれたリーガンの部屋がなぜ、吐く息が白くなるほど耐え難い冷気と、むせ込むような臭気が充満した世界になるのか。

レビューに書き切れない理解不能で、尋常じゃない人が考えたとしか思えない、観ていて不安になった要素はまだまだある…。

(それらの全てが悪魔の所業と片付けるのは簡単だが、さも日常茶飯事に起こる交通事故に出会したか如く、ポーンと放り投げられた感じの常に俯瞰めのカメラワーク、その傍観者の眼差しのような描写は、作り手の異常なまでの冷酷さを感じざるを得ない)

だが、本作の主人公と云えるクリスを演じたエレン・バースティンに集中して観てみると、監督フリードキンの演出意図を理解し、彼が掲げたゴールに向かって、この映画に関わる全員が(たぶん受動的に)進んでいったことが、なんとなくだが想像できる。

演じた役柄同様に、ハリウッドのトップ女優であるバースティンが、娘の容姿と行動がドンドンとグロテスクになっていくのに比例して、自らの顔もやつれ、目の下にはクマができ、さらに娘の暴力で頬に青痣を作るなど、心身共に追い詰められた末に、最期の悪魔祓いの儀式で見せた、娘の部屋のドアが閉ざされる際に一瞬だけ映る、“不安の絶頂”を迎えた表情。

それこそが、フリードキンがこの「エクソシスト」を作る上で、一番欲しかった「画」なのではないだろうか。

そしてカラス神父の目の前で、これまでの惨状に一縷の希望も見出せないクリスの「ただの異常者に見える? あの子はもう私の娘じゃない!!」という台詞を吐く、本当に絶望の底に落とされたかのようなバースティンの演技こそ、フリードキンが引き出したかったものなのではないだろうか。

繰り返しになるが、本作「エクシスト」の異常な緊張感は、「監督に殺されるかもしれない」という現場の恐怖が、そのままフィルムに焼きついたものなのだろう。

そして、このレビュー序盤に記した「悪魔に魅入られるのは自分かもしれない」という本作のメッセージを、製作現場で、フリードキン自らが体現したと思えてならないのだ…(爆)


最後にどうでもいい小ネタを二つほど…

フリードキンの暴君ぶりには、実のところ現場スタッフも相当動揺したらしく、ミスを連発する。
例えばリーガンがカラス神父に緑色のゲロを吐くシーンでは、当初嘔吐物はカラス神父の胸に当たるハズだったが、チューブに不備があり、意図せず顔に当たってしまうアクシデントが起きる。この時、目をギュッとつぶり、嫌悪感を見せるジェーソン・ミラーの表情は、演技ではなく素のリアクション。

ちなみにリーガンが吐く緑のゲロは、皆さんご存知のように、実は濃厚なえんどう豆のスープ。
本当かどうかわからない与太話だが、リンダ・ブレアーは相当な野菜嫌いだったらしく、テストでえんどう豆のスープを口に含んだ瞬間、マジで嘔吐したらしい…(笑)


そして、もう一つの小ネタだが…

本作の主題曲「チューブラー・ベルズ」は映画のために制作されたものではなく、未だ地獄の撮影続行中の1973年5月25日にリリースされた、マイク・オールドフィールドの同名のアルバムに収録されていたものであることは、ほとんどの方がご承知と思うが、主題曲に決まるまでの経緯を改めて書くと…

フリードキンは、ワーナーからの推薦でテーマ音楽を任されたラロ・シフリンが作ったオーケストラ調の曲が全く気に入らず、「このイーゴリ・ストラビンスキーをパクったような曲はなんだ!?」とブチ切れると、録音中の演奏を止め、それまでに完成していたオープンリールテープを、彼の妻の見ている前で路上に投げつけ、ラロ・シフリンを解雇。

ラロ・シフリンをクビにしたフリードキンは、知人の音楽プロデューサー、アーメット・アーティガンのオフィスを訪れた際、そのデスクに置かれた発売されたばかりのマイク・オールドフィールドのソロアルバム、そのジャケットに興味をそそられる。

そして吸い寄せられたかのように手に取り、レコードをターンテーブルに置き、曲を聴くや否や、本作「エクソシスト」のテーマ曲にすることを即断するのだ。

今では恐怖映画(オカルト&ホラー系)と前衛的な音楽の親和性が高いことは、当然のように理解されているが、こと電子音楽に関しては、この「チューブラー・ベルズ」が後世に与えた影響は大きいと思う。

それ以前にも、ヒッチコックの「鳥(63年)」で、レミ・ガスマンとオスカー・ザラの電子音が演出効果として使われたこともあったが、「チューブラー・ベルズ」は忌まわしい印象を与えるミニマムで静かな曲でありながら、本作公開中の1974年3月に全米ビルボード誌のアルバムチャートで3位、全英アルバムチャートでも1974年10月に1位の座を獲得。またその年のグラミー賞では最優秀インストゥルメンタル作曲賞に輝くなど大ヒットした功績があり、70年代以降の恐怖映画の方向性はこれで決まったと云えなくもない。

トビー・フーパーの「悪魔の沼(76年)」、ジョン・カーペンターの「ハロウィン(78年)」、ドン・コスカレリの「ファンタズム(79年)」、そして、プログレッシブ・ロックを基調としながら異常とも言えるトーキングドラムやシンセの音を大胆に挟み込んだ、ゴブリンが手掛けたダリオ・アルジェントの「サスペリア(77年)」などは、「チューブラー・ベルズ」のヒット、その流れに汲んだ楽曲に感じてしまうのだ。

[注:「エクソシスト」初公開時に発売されたサントラ(アナログ盤)に収録された「チューブラー・ベルズ」は、発売元のワーナーと音源の権利を所有しているヴァージン・レコードとの取り決めにより、マイク・オールドフィールドのオリジナル・バージョンではなく、別途、録音された別アレンジのもの。またその後再発されたサントラ盤はオリジナル・バージョンに差し替えられているが、実はワーナーが勝手に編集したもので、この件に関してマイク・オールドフィールドはかなり憤慨しているらしい…]


追補:

1974年7月の本邦初公開時、「小学生以下は保護者同伴でなければ鑑賞禁止」という注意書きを、ワーナー・ブラザースが広告として全国紙の新聞に掲載したという、都市伝説みたいなものがあるらしいが(笑)、当時を知る方々に問い合わせてみたところ、そんな事実はないらしい。

ただし、「成人映画」に指定すべきだとか、年齢規制すべきといった声が、市町村といった各自治体か、教育委員会、PTAあたりから上がった記憶は少なからずあるらしく、なので恐らくだが、朝日新聞とか読売新聞といった一般紙ではなく、市の広報紙か町内会の回覧板にでも「小学生以下は保護者同伴」を勧告するような記事が掲載されたのだと思う…(汗)