KengoTerazono

荒馬と女のKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

荒馬と女(1961年製作の映画)
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混沌とした映画だった。
単に男たちがモンローを囲んで彼女のセクシーさをありがたがる映画かと最初は思ったが、実際はその逆とも言えるものだった。

50年代はハリウッドの斜陽期だ。パラマウント判決からスタジオシステムがうまく回らなくなって、古いものが取り残され新しい価値観がアメリカを覆う。郊外から車で通勤するようになって、わざわざ休日に映画館のある都心には行かない。休日はまったり家でテレビを観るのだ。古いものが忘れられない西部に取り残された男たちはそのノスタルジーに浸り、それを肯定してくれるセクシーなお姉さんを好むだろう。でもモンローは違う。いや、一見彼らの理想を体現しているかのように見えるのだ。でも、彼女はその無垢さ故に男たちに現実を、それも無自覚に突きつける。だから彼らのホモソーシャルなコミュニティはその西部劇的な映画全体のルックとは裏腹に、ボロボロになる。その全体性が崩れてしまっていると知りながら、酒を飲んで現実を忘れ、暴れ回っているあの空間、あの混沌とした空間は、古き良きアメリカと逃れられない世間の新しい波との間にある、ジョン・ヒューストン自身の葛藤にすら思えてくる。

クラーク・ゲイブルは馬を1人で捕らえたのち、その馬を逃すことを選択した。新しい波に飲まれることを選択した。私はゲイブルとモンローのラストショットにハッピー・エンディングをみいだせない。諦念によって古さを捨てた男がいつまで諦め続けることができるのだろうか。ゲイブルとモンローのハッピー・エンディングはリミットつきなのである。

50年代に残る西部劇世界の残り香を舞台にしたノスタルジー映画は、もはやそこに存在する全体性が単なる幻であることを、ノスタルジックなモチーフを流用することで証明した。モンローはその善性故に男たちにいいようにされていながら(胸と背中の露出、胸とヒップを強調したラケット打ち、酔った男の介抱、「愛している」の一言で彼女の主張が流される)、同時に男たちの傷口を絶え間なく抉る存在でもあるのだと思う。
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