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緑の光線のyskのレビュー・感想・評価

緑の光線(1986年製作の映画)
4.5
"緑色"というなんの意味も持たない共通性が、突然デルフィーヌの目の前にあらわれる。そのことに彼女自身も驚くのだが、直感的に緑色にはイヤな感じがしないというだけで、ひとまず信じるに値する不思議なできごとになっていく。

”緑色”という一つのことに注意が向くのは、言い換えると"他の色"には気が付かなくなるということで、その意味で周りが放つ様々な色合いとデルフィーヌはうまく関係を結べない。(そこで遊べると本当は楽しいのだけれど。)

けれど自分の気分や心の状態を深く知っているデルフィーヌだからこそ、その違いがはっきりと分かってしまう。分かってしまうのだが、彼女にとってイヤな感じがしない"緑色のようなもの"は曖昧すぎる概念だし、ごくごく個人的なものすぎるため、言語化して相手に伝えることはできない。そして誰からも共感されず、悩みのスパイラルに落ちてしまうのだ。

自分にとって大切な何かを本当に追い求めていくと、もはや言語化などできない領域に足を踏み入れることになる。そしてその小さな違和感の種のようなものを探求していくと、無意識に周りの物事をその文脈で捉えるモードに変わっていく。自然と注意が向いてしまうのだ。そして思わぬシンクロニシティー(偶然の共通のできごと)が起こり始める。(アイデアが降ってくるときの感覚もそれだ!)
それが今作でいう「なんかわかんないけどイヤな感じがしない緑色」ということなんだろう。これはフィクションだけどファンタジーじゃない。夢のようだけれども日常の中で起こり得る話なのだ。

周りはデルフィーヌと違う世界を生きている。平たく言えばマジョリティの世界だ。見えている世界が違うのはお互い様なのだけど、そこにデルフィーヌの追い求める"緑色のようなもの"はない。周りからああだこうだと言われたところでなにも心には響いて来ない。むしろよけいなお節介。

けれど、ただそばにいるということ、そのものであり続けてくれるということは信頼できる。彼女にとって植物はずっと植物のままでいてくれる癒やしの存在なのだ。この気持ちはとても良くわかる。そういった意味で"緑色のようなもの"とは、もしかしたら植物の隠喩でもあり、それは喋ることもせず、強制もせず、抑圧もせず、あるがままに生を全うし、ただそばに居続けてくれるもののことなのかもしれない。

映画の中でおじいさんが言っていた「緑の光線」の原理の説明も良かった。水平線に近づくことで回析が強まって赤から紫までの色にはっきりと分かれた太陽光は、屈折率的に下が赤、上が紫の虹色になる。けれど大気によって紫や青は散乱し見えず、赤色からだんだん沈んで見えなくなっていく。そして最後に残るのが緑色というわけだ。

赤やオレンジが夏を楽しむ熱に浮かれた人たちが醸すトーン、青や紫はそこから完全に退いた聖職者のようなトーンだとすれば、緑というのは消えるでもなく浮かれるでもなく自身の実存に照らしてただ生きるデルフィーヌのトーンだ。

デルフィーヌと友達になれる人は少ないが、もし深く通じあえたなら、それは一生続く友情になるという気がする。
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