シゲーニョ

ダーティハリー2のシゲーニョのレビュー・感想・評価

ダーティハリー2(1973年製作の映画)
4.2
長寿シリーズとなった作品には回が進んでいくと、主人公が「宗旨替え」というか、微妙に「キャラ変」することがある。

例えば、ショーン・コネリー演じた初代ボンドは、1作目「ドクター・ノオ(62年)」ではプロの殺し屋としての職業、冷酷非情な面=「陰」の性格が見られたが、3作目「ゴールドフィンガー(64年)」あたりになると、ジョークを言いながら飄々とピンチを切り抜ける「陽」のヒーローになっているし、「リーサル・ウェポン」シリーズの主人公リッグスは、1作目では自殺願望のある「死にたがり&発狂寸前」刑事だったのに、3作目では完全に鬱状態を脱し、幾分マトモになったのか、オンナ刑事の恋人までデキて、任務中に受けた「裂傷」を競い合う夫婦漫才まで見せる(!!)

「ロッキー」だって、父親から「お前は頭が悪いから体を使え」と教えられボクサーになった訳だが、「ロッキー2(79年)」では、よせばいいのにカンペを読めないほどのバカっぷりを披露しCM出演を速攻でクビ。しかし続く3作目ではチャンプになって人知れずコッソリ努力したのか、アメックスカードのCMに出て、淀みなくスラスラと台詞を喋っている(笑)。

もちろん、最初からシリーズ化を前提にして作られたとしても、市川雷蔵版「眠狂四郎」のように、作り手が手探りで始めた場合もあるし、「男はつらいよ」のように、演じる渥美清の加齢に合わせてワイルドなヤクザ風な一面が消え、人情の厚い陽気な面が色濃くなる例もある。

まぁ、以前に「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ(21年)」のレビューでも書かせて頂いたが、大抵の長寿シリーズの主人公というのは、製作時期、その時々の社会情勢や人々の意識・嗜好に合わせて、姿を変えていくことが、その命脈を保つ上で当然のことなのだろう。

しかし、シリーズ僅か2作目にして、「宗旨替え」してしまったかのように思える主人公がいる。
正しく書けば、世の中に溢れた欺瞞に対する怒り、“法で裁けぬ悪に天誅を下す”、1作目で見られた主人公のモットーを、その2年後に作られた続編にして、捨てたかのように思えてしまったのだ…。

それが、本作「ダーティハリー2(73年)」である。

ただし、これは初鑑賞時に感じたことであり、何度か再鑑賞した今ではだいぶ印象が異なる。
本作の初見、その状況が影響していると思うのだが、自分の住んでいた田舎町では、通常二番館落ちの二本立てが当たり前で、本作は勝手に劇場主が「ダーティハリー祭り」(笑)と称して、なんと1作目との併映だった…。

本シリーズのファンならご存知のことと思うが、第1作「ダーティハリー(71年)」の最初のタイトルは「Dead Right(死んだ権利)」で、脚本に書かれた主題は「ミランダ権」だ。

アメリカのドラマで「お前には黙秘権がある。お前が話すことは全て法廷で証拠として採用される…云々」という警官が犯人逮捕時に言う台詞を、何度か耳にされた方がいるだろう。これがミランダ権の通達である。

草稿段階の主人公は引退間際の老刑事。連続殺人鬼を逮捕するが、尋問の際にミランダ権の通達を怠ってしまい、犯人は釈放されてしまう。つまり最初のタイトル「死んだ権利」とは、「容疑者の権利ばかり保護されて、被害者の権利は死んだも同然だ!」という主人公の怒り、その顕れを意味している。

60年代後半から70年代初頭のアメリカは、被害者の立場が顧みられない時代で、マスコミは容疑者の人権を躍起になって擁護していた。しかし、テキサスタワー乱射事件や、1作目の敵・スコルピオのモデルとなった“シリアルキラー”ゾディアックのような異常者による犯行が目立ち始めたことで、正義がまかり通らない社会に人々は不安を募らせ、容疑者側に偏った、悪を助長するかのようなルールを疑問視する声も芽生えていた。

重罪を犯した人間が罰せられず、刑に処せらず、法の網を潜り抜ける実情。
だからこそ、正義の制裁が必要だと考えられた時代。
つまり、主人公ハリーの怒りに、多くの大衆、観客が賛同する、絶好のタイミングだったのである。

ハリー役に最初にオファーされたのは、「刑事(デカ/68年)」で、タフで正義感に溢れながら人情味のある悩みを抱えた警部補を演じたフランク・シナトラ。しかし、脚本の改稿を任されたジョン・ミリアスのアイデアを知ってシナトラは尻込みをする。

ミリアスは、ハリーに44マグナム弾を発射するスミス&ウェッソンM29を持たせたのだ。

劇中、ハリーが「世界で一番強力な大型拳銃だ」と嘯くように、本来は狩猟用として用いられてきた拳銃で、都会に潜む獰猛な“野獣”のような悪党を“狩る”ハンターのようなハリーには、まさにピッタリの銃だ。
バカでかいマグナムを直に手に持ったシナトラは、暴力が過剰に描かれ批判を浴びる作品になると思い、ビビって、手首の怪我を理由に降板する。

マグナムを持った男が一人で善悪を見極め、正義のために死地へと向かう姿を、19世紀のアメリカ西部で戦った一匹狼のガンマンにダブらせたジョン・ミリアスは、シナトラが去った後、「明日に向って撃て!(69年)」でアウトローを好演したポール・ニューマンに声をかけるも、左翼のニューマンはミリアスの暴力礼賛に反発して「No!」と即答。そして西部劇のレジェンドスター、ジョン・ウェインにお鉢が回ってくる。

しかし、ウェインは脚本に書かれたラストシーンを一目見て、出演を固辞する。
なぜなら、法律と警察の無力さに絶望したハリーが、警察バッジを池に投げ捨てて去っていくラストが、ウェインが忌み嫌う「真昼の決闘(52年)」で、ゲイリー・クーパー演じる保安官がとった行動と全く同じだったからだ。

「真昼の決闘」は、刑期を終えたならず者たちが、クーパー扮する保安官ケインに復讐を果たすため町に舞い戻る。しかし町民は誰一人、保安官を助けようとしない。住民のためにヤツらとケインは戦ったのに…。

「自分が貫いた正義とは一体誰のためだったのか?」と苦渋するケインの葛藤を軸に、卑怯な大衆の現実を暴いたこの作品を、ジョン・ウェインは「西部劇の精神に反する!」と公然の場で痛烈に批判した。

ウェインにしてみれば、市民の助けを期待したり、バッジを捨てたりするケインは無責任で弱腰で、保安官の面汚しに見え、自分がこれまで演じたフロンティア・ヒーローたちを、さも侮辱しているように思えたのだろう。

ただし、あくまで個人的な見解だが、ジョン・ウェインが「精神」とまで語るフロンティア・ヒーローの多くは、開拓時代の逸話や口承で伝え聞いたハナシを、当時の作家が講談調でまとめたダイム・ノベルを基に、様々な欺瞞と史実の湾曲を行ったことで成立した「偶像」に他ならない。

60年代後半から人気が下降した西部劇と共に、陰りが見え始めたウェインは、やはり現実との折り合いの付け方が上手い方ではなかったのだと思う。
(ちなみに、79年に逝去したウェインの墓標には「彼は醜く、強く、誇り高い男だった」と刻まれている)

名だたる俳優がオファーを蹴った1作目「ダーティハリー」の脚本は、流れ流れて、イーストウッドが自ら興した製作会社マルパソプロに漂着。その内容に惚れ込んだイーストウッドは、師で盟友のドン・シーゲルに監督を依頼。
こうして、涼しい顔で悪い奴らを撃ち倒すスーパーバイオレンス刑事(デカ)が誕生することになる。

では、なぜイーストウッドは脚本を読んで、一発で出演をOKしたのか。

その理由の一つが、彼にとって「真昼の決闘」は、生涯忘れられない大事な一本だからだ。
内容は当然として、「真昼の決闘」の脚本家カール・フォアマンが実際に赤狩りで「アメリカの敵」と決めつけられた時、ハリウッドの関係者は我が身可愛さゆえに誰一人フォアマンを助けなかったことを鮮明に覚えていると、20年ほど前のインタビュー記事だが、イーストウッドは述懐している。

その証拠に、イーストウッドが自ら監督した最初の西部劇「荒野のストレンジャー(72年)」は、「真昼の決闘」をモチーフにしている。そもそも「もし、ゲイリー・クーパー演じた保安官が殺されていたら?」というイーストウッドの思いつきが企画の始まりで、ならず者を利用し、保安官の孤高の戦い、死を迎える末路を黙って見ていた、善良そうな仮面を被った狡猾な町民の真の姿を描いた作品である…。

さて、1作目「ダーティハリー」は、被害者よりも加害者の人権を守る社会の矛盾を暴き、それに不平不満を唱えていた大衆の支持をガッチリ得て大ヒットを記録する。

また反戦デモや公民権運動といった平和や自由、権利を訴える市民を暴力で抑える警察を見てきた観客にとって、正義を追い求めるハリーは理想の警官に見えたのだろう。
抗えない人々を救うには、法に従っている余裕などない。だから、ハリーのやり方に拍手喝采したのだ。
言い換えれば、法を遵守する警察が機能するからこそ、世の秩序が保たれるということを再認識したとも言える。

[蛇足ながら、オファーを蹴ったジョン・ウェインとポール・ニューマンは「ダーティハリー」のヒットに便乗した、後追い企画のような作品に揃って出演する。
ウェインは「マックQ(74年)」で44マグナムを超える、大砲のようなサイレンサーをつけたイングラムのマシンガンを愛銃にした一匹狼の老刑事を熱演。ニューマンは「ロイ・ビーン(72年)」で開拓時代のアリゾナで勝手に判事を名乗り、容疑者を片っ端から絞首刑にする「まず処刑して、裁判はその後だ」が口癖の、まるでハリーが過去にタイムスリップしたかのようなアウトローを演じた。
まぁ、両人共に個人的には大好きな俳優なので、内心は複雑だが、なんかちょっとイタいエピソードである…笑]


さて、だいぶ前置きが長くなってしまったが、本作「ダーティハリー2」は前作で辞職したにも拘らず、ハリーはちゃんと警官として日常勤務に就いている(前作のヤリ過ぎ行為で殺人課から飛ばされ、別の警察署に出向しているようだが…)。

まぁ、そんなことは続編を観に来たコッチにしてみれば理由はどうあれ、百も承知なワケだが、今回の敵はなんと、法で裁けぬ様々な悪党を独自制裁する4人の若い白バイ警官。

「のさばる悪をなんとする。天の裁きは待っておれぬ。この世の裁きもあてにならぬ。闇に裁いて仕置する。南無阿弥陀仏… 」とTVドラマ「必殺仕置人」の冒頭のナレーションみたいなのを哲学に、歪んだ正義感から仕置人と化した彼らなのだが、やってることは「前作のハリーとまさに同じじゃん!」なのである。

これは同日、劇場で1作目から続けて観た自分からすれば、まさに青天の霹靂で、当時小四で単純だった自分のアタマでは展開が全く予想できず、「三大怪獣 地球最大の決戦(64年)」のゴジラみたいに突然、「暴れん坊からイイ子ちゃんにキャラ変するのか?」と大いに心配させられた(笑)。

ただし、本作を冷静になってじっくり鑑賞すると、大団円へと連なるハリーの行動心理を、ちゃんと観る側に納得できるような「仕掛け」が周到に施されているのが分かる。

先ず、ヴィランとなる白バイ警官だが、これは繰り返しになるが前作のハリーの「写し鏡」だ。

しかし実のところ、前作が犯罪者を刑事が射殺することを正当化した映画として、左派の映画評論家たちから「ファシスト映画」として叩かれたことに対する、エクスキューズ(弁解・口実)なのである。

警官が銃を撃ちまくることは、左寄りの人間にとってファシズムの象徴に思えたのだろう。

要は、1作目でハリーがファシスト呼ばわりされた一面を、あからさまに白バイ警官に担わせることで表現し、主人公と対峙させたのである。ハリーではなく、敵こそがファシストなのだと。

治安維持を大義名分として掲げ、極右的な方法で人を殺す。しかも白いヘルメットに黒い制服、ピカピカに磨かれたロングブーツは、まるでナチスの高官のようだし、殺しの主なターゲットはイタリア系&ユダヤ系のマフィア、黒人のピンプといった非WASPだ。

ハリーに「お前らは今週、沢山の人を殺した。来週はどうする?」と問われれば、「もっと殺す!」と即答する。
悪人に制裁を下す理由を鑑みれば、ハリーと白バイ警官たちは同類と思えるが、法を超えて罪を犯している点では白バイ警官がヴィランだ。

1作目のハリーは、たしかに「法の枠」を超えた。
そして今回、ハリーが対決するのは、法を司る警察に属しながら、法を曲げる輩なのである。
ハリーと白バイ警官たちはコインの裏表であり、本作は「善悪の判断、その一線を越えたら?行き過ぎたらどうなる?」をテーマにしている。

本作でハリーはどこまでが善で、どこからが悪なのか思案し、その結果、自分には越えてはならない一線があることを再確認する。
だから、同じ志の持ち主だと共闘を持ちかけられた時、ハリーは「I’m Afraid You’ve Misjudged Me(オレを見損なうな)」と言うのだ。
自分と似ているけれど、「お前らは一線を越えた悪党なんだ」と。

チョット見では、微妙な違いが判らないかもしれない。
でも、ハリーの人間性が明確になるシーン、瞬間である。

そして、もう一人、顔出しタイムは短いながらも重要な登場人物がいる。
ハリーの先輩であり10年来の友人、交通課に属するパトロール警官のチャーリー・マッコイだ。
(演じるのは、「リーサル・ウエポン(87年)」で敵ボス・将軍(ジェネラル)役のミッチェル・ライアン)

チャーリーは、警察や司法に対する職務規範が厳しくなっていることに不満を隠さず、犯罪者の抹殺もやむを得ないと公言する。

「凶悪犯を射殺しても、検事局の若造どもは文句を言いやがる。法に抜け穴があり、正義は実現されない。正義は狂っている!オレのアタマもどうにかなりそうだ…オレは諦めない、戦い続けるぞ」

チャーリーは、ハリーの近い未来の姿だ。
毒を以て毒を制すというやり方を続けていけば、いずれは行動が過激になり、やめるべき時が分からなくなる。
現実に、チャーリーは怒りと不安がコントロール出来なくなり、三度の離婚、自殺未遂を繰り返す。

そもそも人間の道徳心なんて曖昧なもので、どこかで線を引く必要がある。
気がついたら、正義のはずの側が悪になっているかもしれない。
危うい均衡が崩れたら、一体どうなるのか?

だから、ハリーは相棒の刑事アーリイ(フェルトン・ペリー)に、こう助言するのだ。
「まともなことをしてたら、早死にするぞ」
これは大変含みのある台詞だと思う…。

本作「ダーティハリー2」は、イーストウッドが少年時代に観た西部劇「牛泥棒(43年)」を下敷きにしている。

「牛泥棒」は、警官の少ない開拓地で、志願した市民が“自警団”を結成して犯人を追う話で、牛泥棒の容疑をかけられたカウボーイ3人を、自警団の男たちが“勝手に思い込んだ正義”の名の下、本当は無実なのに縛り首にしてしまう。建国して未だ歴史が浅いアメリカであっても、罪刑法定主義という概念・原則は既にあったはずなのに…。

そして、1935年にカリフォルニアで起こったブルック・ハート誘拐事件の犯人が、暴徒と化した一般市民によってリンチされたことも、当時5歳の少年だったイーストウッドの記憶に深く刻み込まれていることだろう。

「正義とは何なのか?」
「法とは誰が遵守するものなのか?」

幼年期に感じた疑問、「牛泥棒」が暴いた闇を、イーストウッドは自身が興した製作会社「マルパソプロ」の処女作、「奴らを高く吊るせ!(68年)」で、先ず世の中に問いかける。

監督は本作「ダーティハリー2」と同じく、テッド・ポスト。
ブレイクを果たすきっかけとなったTV西部劇「ローハイド」で演出を手掛けた、古くからの盟友である。

「奴らを高く吊るせ!」は「牛泥棒」と同じく、嫌疑をかけられ、自警団に半殺しにあったイーストウッド扮する主人公が連邦保安官補になり、国家の権威を背負って、自分に非道な仕打ちを行ったヤツらを地の果てまで追いかける。
さらに「牛泥棒」よりも深く切り込み、自警団を“リンチ集団”、彼らの勝手な正義を“法治国家への叛逆”として描いているのだ。

そして最も重要な点が、法を司るはずの判事が見せしめとして、証拠がない容疑者を勝手に処刑してしまうことだ。国家がやれば殺人も合法という、とんでもない考えであり、これは本作「ダーティハリー2」のラスボス、白バイ警官を配下におく偏狭的な悪の親玉の“思想”と何ら変わらない(!!)

イーストウッド扮する保安官補は当然、「正当に裁かれないのなら、アンタ(=法)が下した死刑と、自警団の私刑はどう違うのか?」と反論するのだが…。

「奴らを高く吊るせ!」はスッキリしない結末で終幕する。
それはこの映画が掲示した問いかけに正解が無いからだろう。

人は神様ではないのだから、人を裁く権利も資格もない。
だが、裁かなければ無法になってしまう。
だから、よりミスが少ない法治国家に任せるしかない。
でも、それが正しく機能しなければ…。

現実はその堂々巡りだ。

だから、本作のハリーは「100年前にやっていたことをやってるだけさ。社会の敵は残らず処刑する」という敵の意思表明に対して、「警察が処刑人になっていいのか?横断歩道で信号無視したらあの世行きか?オレはハミ出し者かもしれない。今の法はクサっているかもしれない。でも別の秩序が出来るまで、オレは法を守る!」と反論する。

ハリーは法を盾にした官僚主義は反吐が出る程嫌いだが、法に異議を唱えているわけでは決してないのだ。

そして終盤のクライマックス、悪のラスボスへの冥土の土産とばかりに「A Man’s Got to Know His Limitations(利口な男は限界を知っている)」という言葉を吐く。

これを聴けば、違法スレスレの境界線をちゃんと理解した上で、誰もやろうとしない汚れ仕事(=ダーティ)が、自分の責務であること、その1作目から続くハリーの信条が、本作でも結局ブレなかったことが判るはずだ…と思う(笑)。


最後に…

ここからは勝手な推察だが、「真昼の決闘」「牛泥棒」、そして自ら製作した第1作「奴らを高く吊るせ!」で掲示されたテーマは、映像作家イーストウッドの生涯を通してのテーマになっていったと思う。

「ダーティハリー」シリーズ初期作では、法で裁けぬ悪を滅ぼし、法で裁けぬ悪を裁く処刑軍団と戦い、「荒野のストレンジャー(72年)」では排他主義的で保身に走る町長や保安官を叱責し、「ペイルライダー(83年)」では入植者を支援しているようで、実はその裏、自由を搾取している鉱山主に鉄槌を下し、「許されざる者(92年)」では勝手な裁きを下す保安官と戦い、「トゥルー・クライム(99年)」では死刑囚を冤罪から救った…。

「じゃあ、ダーティハリーに限って云えば、3作目以降はどう説明するんだ?」という反論もあるかと思う。

たしかに法と正義の現実を考えさせるドラマ性は希薄になったし、ハリー自身、ミランダ権を読み上げることなく犯人を平気で射殺するし、それによってマスコミに叩かれたり、クビになることもない(笑)。

しかし、3作目の相棒は資料課に9年間勤務し、“法に精通”した刑事ながら敢なく殉死。腐った世の中に裁きを下す左翼革命家と思われた敵は実のところ、大金欲しさのチンケな盗人…。

そして、本シリーズ中、唯一イーストウッドがメガホンをとった「ダーティハリー4(83年)」を、改めてよ〜く見返して頂けばお分かりになるだろう。

ハリーの相手は、連続殺人犯のジェニファー(ソンドラ・ブロック)。
ハリーは劇中、なんと、自分と妹の人生を粉々にしたレイプ犯に復讐する彼女を擁護する。
そしてハリーの違法捜査で犯罪者が無罪放免となる冒頭の裁判シーンや、ジェニファーが被害者の人権を訴えるラストまで、その構成は1作目「ダーティハリー」の裏返し…。

本作「ダーティハリー2」公開からちょうど10年。
時を経た80年代に入っても、「正当に悪を裁く上での境界線」、それを論じることが堂々巡りだということを相変わらず本シリーズは謳っているし、ハリーは未だ「別の秩序」が出来ていないことを嘆いているのだ。

劇中、お気楽な同僚の刑事に、ハリーは息衝く。
「毎日、どこかで起きてる校内暴力と、人殺しは同じなのか?」

[注:利己心でハリーの捜査を邪魔する署長を演じているのが、「奴らを高く吊るせ!」の傲慢な判事役のパット・ヒングルというのも、重要なポイントだ…]

さらに、人質を取る強盗犯への決め台詞「Go Ahead, Make My Day(さあ撃ってみろよ、望むところだ)」を言い放つイーストウッドを見ると、度々演じてきた西部劇の孤高のヒーロー、そして、どうしても「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーの姿が重なってしまう。

個人的な意見で大変恐縮だが、演じたハリー・キャラハン同様、クリント・イーストウッドの姿勢・信条は一貫していて、ブレることも、揺らぐこともないのである…。