ろく

キャリーのろくのレビュー・感想・評価

キャリー(1976年製作の映画)
4.5
ぶらいあんでぱるま②

この映画は「お前ら」に向けられているんだよ。

学校でもメインでなく運動はダメ、勉強もダメ、恋は憧れているだけで自慰ばかりしている。人と話せば下を向き、不意に意味不明な笑顔しかできない。3人そろえば決まって頷くだけ。「あれ、お前まだ居たの?」そう言われても複雑な笑顔でしか返すしかない。映画だけが自分を癒してくれた。映画だけが人生だ。得意なことと言ったらスピルバーグのフィルモグラフィを発表順に言えること(大林宣彦でも可)。そんな「お前ら」にデパルマが撮ってくれたのがこの映画なんだ。嫌いなわけないじゃない。

間違って名前を呼ばれて激昂するのは「お前ら」だよ。自分には自信がなくて「私ではない(俺ではない)」と言うのは「お前ら」だよ。音読になると急に声が小さくなってちゃんとした発音が出来ないのは「お前ら」だよ。なのに急にプロムで主役になる。「自分も主役になれる」って思ってやがる。そうだ。デ・パルマはこの映画をどうしようもなくて困ったものとして(なのにとても愛おしい)「お前ら」に対して作ったんだ。

哀しい話なはずなのにあの最後の爽快感はなんなんだ。二分割カットに大殺戮。あれは「お前ら」の澱を全て外してくれる。どれだけキャリーのあのシーンを見て溜飲を下げたか。あんなことは出来るはずない。でもせめて映画の中だけは!!!

冷静になる。

僕にとってキャリーはまさに「非モテ」の絶望と幸せを一緒に見せてくれる作品である。全く救われない作品のはずなのに僕はこの作品に救われて居る。それは「自分もキャリーになれる」ってこと。世の中なんかfuck youだ。いつでもおまえらは「殺せる」んだよ。そんな陰鬱な気持ちをそのまま昇華してしまう作品だ。だからこの作品を語るのは困る。だってキャリーはそのまま「自分」だからだ。そしてこの映画は自分を肯定しながら思いっきり「否定」する。キャリーは死ななければいけない。それは「お前ら」もそうなんだ。通過儀礼のように「キャリー的」なものが「殺され」そして「普通」(それは仮想としての普通だが)になる。キャリーを卒業出来たとき、それは自分が「まとも」になったときだ(でもその一方で自分を一度殺しているんだ)。いいのか自分を殺して、そう自問するけど、結局忙しさの中で忘れ去られる。久々にキャリーを見た。それは過去の自分に「斬られる」ことかもしれないと思っている。

※登場人物みな狂っている。チョイ役の英語の先生(なぜか蝶ネクタイ)までそうだ。「ビュ~ティフル」と気持ち悪い口調で語る彼を忘れてはいけない。

※キャリーに一番優しかった先生は真っ二つになって殺される。誰も信じられないんだ。そう思った時はないか。残念なことだけど僕はある。ないとは言わせないぞ。

※一番狂っているのは母親かもしれない。キャリーを見ていると「誰が悪いんだ」なんてことを考えるのが億劫にまでなる。誰が悪いというのもないんだ。あるのはただ「みんな殺される」、それだけだ。

※キャリーが全ての「いやボーン」の法則を作ったと思っている(©相原コージ)。女子は「いやっ!」って言ってボーンとなる(頭爆発とかね)。どれだけこの亜流が作られてきただろう。それだけでもキャリーの功績は計り知れない。
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