カラン

ジュリアンのカランのレビュー・感想・評価

ジュリアン(1999年製作の映画)
5.0

こんな風に世界を感じたかった!

こんな風に僕らの《外部》を表現したかった!

外部だよ。でも、それは僕らの外部だ。僕らが自分のために作り出し、僕らが安心して普通の僕らでいられるように、囲い込み、自分の中から常に排除し続けている世界なんだよ!僕らが否定し抑圧することで生みだしたのに、まるで最初からそうであったかのように社会の全員が全員とも知らないふりをしている、そんな僕らのインナーワールドとしての外部なんだよ!

狂気の王子、ハムレットはうそぶく、

The time is out of joint: O cursed spite, That ever I was born to set it right!

「この世はたがが外れている。
おぉ、なんと呪わしい悪徳であることよ、まさかこの俺がそれを正すさだめであったとは!」

このシェイクスピアの台詞をプロローグに持ってきて、爆音のロックを響かせながら爆撃機で墓場を悪魔的に破壊するオープニングを作ってみせたのは、『ポーラX』のレオス・カラックスだった。主人公のピエールが狂ったように不在の父にまつわる真理を探して、狂気の深淵に落ちていくことになるのは、まったくハムレット的であるし、一気に芸術の空間に引き込む演出だし、それに続くヨーロッパの古城の一室まで、明るい緑の空間をカメラが忍び寄るという明暗のつけ方も究極である。

レオス・カラックスも若き芸術の天才として映画界に登場したわけだが、このハーモニー・コリンもすごい。『ジュリアン』のオープニングは、プッチーニのマリアカラスが「オーミオ〜バッビーナ〜」と歌って有名な歌曲をバックにして、フィギュアスケートの選手が、ストップモーションでぎこちなく、それこそthe time is out of jointな調子で、旋回してるのが映っているテレビが、画面に映っている。これはずいぶんと手垢のついた表現で始めたもんだなって思ったのだが、後の展開を考えてみれば、この「私のお父さま」って曲もずいぶん狂ってるし、頭のおかしなやつらが、同じ運動をくるくる繰り返すにはぴったりだろう!

「ああ、愛するお父さま、
私は彼を愛してます、とても素敵な人よ。
だからポルタ・ロッサへ行きたいの。
指輪を買いたいの!
そうよ、とても行きたいの。
そして、私の恋が叶わないなら、
私はポンテ・ヴェッキオに行って、
アルノ川に身を投げるつもりよ!
身を焦がす想いがとても苦しいの!
ああ神さま、私はむしろ死んでしまいたい!
お父さま、分かって、お願い!
お父さま、分かって、お願い!」


この映画はすごいエッジの効いたシーンばかりだけど、繋ぎ方がすごい上手だよね。「オーミオ〜」の最初から父の話をしているのだ。だから次のシーンで殺人事件が起こる場面では、「父の亀」に触ろうとして止められると、主人公のジュリアンは激昂して男の子を絞殺してしまう。なんで亀?男根のこと?父とは誰だ?と考えているうちに、そのお父さまが登場する。なんと・・・、ジェフリー・ラッシュ?そりゃ『シャイン』じゃね。で、ドイツなまりのゆっくりとした彼の英語が父性の狂気を焚きつけているぞ。しかし、気の狂った神のようなこの父、この人本人が、問題の根源のように受け取ってはいけない。ともかく、主人公のジュリアンもまた父となるのだ・・・、『ジュリアン』と、『ポーラX』と、ハル・ハートリー『シンプルメン』やら、テオ・アンゲロプロス『シテール島への船出』とか、ヴィクトル・エリス『エルスール』、タルコフスキー『鏡』とか、キェシロフスキ 『ふたりのベロニカ』とか、ソクーロフのいくつかとか、『大阪ハムレット』の間寛平と岸部一徳を並べて父性の分析してやったら、ピカピカの・・・


・・・違う、違う。違うんだ。この映画の魅力はそういうことじゃない!やられた。私は分かってない。見終わった後、この映画以外は今まで覚えた全部、今まで観てきた全部がデタラメなんじゃないかとも感じたが、ただの勘違いだ。普通に他の映画も見れた。だが、私は見たんだ!私が目撃したのは、すごく単純なものだった。ハーモニー・コリンには精神分裂症の叔父がいたらしい。その叔父のテープを数ヶ月ジュリアン役のユエン・ブレムナーに聴かせ続けた。その後生まれてきた自分の子供にユエンはコリンの名をつけたらしいよ。

まぁ、ともかく、コリンは狂気を内在的に撮ろうと決めたらしい。「精神分裂症を公平に撮りたかった。」んだって。それで、こうやってまっすぐリアルに撮った。ここだよ。この目線なんだよ。これはドグマ95の効果なのかな?トリアーの作品から見返すかな。

ストップモーションで撮影された世界は関節が外れてる。でも、腹をふくらませた女も、目の見えない女の子も、回る。目の見えない女の子だけが、たがが外れて狂っている世界で、女が破水して倒れ込んでしまったリンクで、ブルーの色彩に染まりながら回ってる。目が見えない人たちの内面の輝きを、あなたは残酷だと思うかもしれないけど、この場面は捉えているんだよ。こういう描写にね、変な悪意を感じないで。グロテスクだって、この映画のことをあなたは思うんだろうけど、存在ってね、生身だと、なんでも不気味なんだよ。この映画が殊更にグロテスクなわけじゃない。この映画がカッコつけてグロテスクを狙っているわけでもないんだよ。

この映画はminiDVで撮影したものを、それを16mmにダビングしなおして、その上でドグマ規格である32mmにblow upしたらしい。そうするとさ、パチパチ、画面から火花がでるのよ。ぶん殴られて星が舞ってる感じなんだろうね。少し気持ちいいんじゃないの。たしかに少し目が痛くなるけど、何のために目はあるのさ。見えないものを見るためだろ。ちょっと自分のエゴに都合の悪いものを見るんだったら目が痛くなるなんて、当たり前だよね。

でさ、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』で、ホールデンが妹のフィビーに自分の夢を語る場面があるでしょう。あれはたぶん金色に燃える畑なんだろうね。ナウシカよりも燃えてるよ、パチパチさ!あなたはこのサリンジャーの小説が喚起するほどの悦びのフィールドを他に知ってますか?ヘッヘッヘ、あー気持ち悪い、私は知ってますよ。マルグリット・デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』のロルが草むらに横たわって自分の足の間に手を置くところでしょう! えっ、『山椒大夫』の綿帽子かぶって群生する幽玄なる美を表象するススキの草むら? まあ、ね〜、アルミ缶にしまっとこうぜ。今はリアルの話だからさ。ジュリアンのお姉さん、妊娠してるんだけど、赤ちゃんの服を買いに町に出るとき、金色の草むらを散歩するんだよ、鼻歌を歌いながらね。狂人のこと、ちゃんと分かってるな、コリン監督は。狂人は歌いながら、散歩するんだよ!喋りながら、歩くんだよ〜。あなたと一緒!



『ライ麦畑でつかまえて』のwikiから引用

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」





うさぎちゃんとか、ねずみちゃんとか、お猿さんから、変異を重ねて、僕らは人間に進化してきたらしいけど、その進化の過程はね、障害のある人たちを踏み台にしてるんだって。あなたがあなたで、私が私なのは、この映画に出てくる人たちを否定することによってってこと。僕らの存在の内側にこの映画に出てくる人たちがいるっていうことだと思うよ。ハーモニー・コリンの言う「公平」な視点をそういう風に受け取ってますわ。一応確認しとくけど、ここで言う進化って、良いとか優れてるとかいう価値判断はなしね。ただ、変異が次世代に伝達されて、その変異を受け継ぐ個体が環境の中に増えたことを指しているに過ぎないから。
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