レインウォッチャー

コズモポリスのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

コズモポリス(2012年製作の映画)
3.0
マインドフルネス at リムジン。(ただし失敗。)

「俺は床屋へ行く」。
投資の世界で無類の成功を収めた若き富豪エリック(R・パティンソン)。しかし、中国元の思わぬ値動きによって大打撃を受けていた。そんな彼が、車中で仕事もできればトイレも済ませられるハイテクリムジンに乗ってNYを横断する。

…と、本当にそれだけの一日を追った映画である。
多くの時間をエリックの動く城ともいえるリムジン内の場面が占め、そこに様々な人物が訪れて彼と会話する。仕事上のミーティングもあれば、経済論や哲学めいた問答、果ては日課の健康診断、それにセックスも。

それらの会話は小難しい言葉が飛び交ったりしつつ、時にちぐはぐで行き場がない。車中で誰と向かい合うときも、エリックは無表情で蒼白ともいえる顔貌をしていて、全てを手に入れた人物のはずなのに虚無的だ。もちろん破産という問題に直面しているせいもあるだろうけれど、慢性的な死の影を背負っている。

思うに、リムジンへ訪れる人々はエリックの人格を分配したような存在なのだろう。そのうちの一人、S・モートン演じる女が「私はあなたの理論担当主任」と言うように、他の人物も彼を構成するピースのようだ。

つまり、彼らとの対話はエリック自身との対話に他ならない。守られ、閉ざされた思考の壁打ちが堂々巡りに終わるのも納得であり、メカニカルな車内は母親の胎内にも棺桶にも見えてくる。やがて辿り着く終着点においても、彼は自らと正反対であり鏡像ともいえる人物と対峙することになるのだ。

道中、エリックは何度かだけリムジンの外へ出るが、主な目的は妻のエリーズ(S・ガドン)と食事をするためだ。彼女は、エリックにとって圧倒的な他者として立ちはだかる。(彼女はリムジンやホテル等、エリックのテリトリーに入ろうとしない。)
エリックが彼女に対してとれるコミュニケーションは「セックスしたい(トイレでもいいから!)」と、あとは金の話。しかし、彼女は彼と対極的な詩の世界に生きていて、ことごとく響かない。その様は滑稽でありつつ、ひどく哀しい。

R・パティンソンとS・ガドンの顔の肌は、どちらも不自然なほどつるんとしていて磁器のようだ。これが狙ったメイクの効果なのか天性のものなのかわからないけれど、2人がより象徴的な存在であることを意識させる。

妻と同じように、目的地へ行くための道中もエリックにはコントロールできない。大統領演説による交通規制や有名ラッパーの葬列、民衆のデモなどによって横断を阻まれる。
もはやこの世に買えないものなどないほどの富を手にしてなお、「床屋へ行きたい」それだけが叶わないこともある。富にできることは限られている、ということなのか。

ミッドクレジットの背景に使われているのは、抽象画家マーク・ロスコの絵だ。これはエリックが序盤で買い占めようとしていたものでもある。
エリックは「俺が買えば俺のものになる」とロスコ・チャペル(※1)ごと買おうとするのだけれど、そもそもロスコはアートがブルジョアのアクセサリーにされることに強く反発していた人物。このあたりからも、エリックと外界の断絶、富の限界を感じることができる。

しかし、内面にしか城を創れなかったエリックにとって、瞑想的なロスコの絵は安息の象徴だったのかもしれない。そう考えると、窓やディスプレイで四方を囲まれ、黒を基調にしたリムジンとは彼にとっての未完成なロスコ・チャペルだったとも思える。

今作はひどく観念的・閉鎖的な映画ではあるけれど、コロナ禍の(半)ロックダウン生活を経験したわたしたちにとっては決して遠い世界の話ではないと思う。
ロスコの絵と向き合ったときのように、塗り重ねられた黒の底から浮かび上がってくる思念の泡沫が、きっとクローネンバーグからの贈り物なのだ。

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※1:https://chikasumida.squarespace.com/column/fsjrnnaesszynezn95xxzcy787xw2f