レインウォッチャー

夏至のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

夏至(2000年製作の映画)
4.0
この日本は昔から雨に親しんできた土地であり、わたしたちは雨に関する語彙も多く持つけれど、中でも「情緒を感じる雨」といえば、静かに・柔らかく、しとしと・さやさやと降る様子を思い描くのではないだろうか。

そこのところ、この映画の中の雨は激しい。ベトナムの長い雨季を象徴する、容赦ないスコールである。日本語なら驟雨、豪雨と呼べそうな、舗道が浸水する勢いでざあざあ・びたびたと降る。
それでいて、今作は徹底してたおやかで、静謐であり、しびれるほど官能的(※1)だ。ある三姉妹と男たち(夫、愛人、兄…)との関係を水彩にして気まぐれに手離したような、物語よりは詩を感じる映画。彼女たちは外から見れば何も大きく変わっていないようでありながら、確かに季節は巡っている。

そんな彼女らの営みを、雨はまるで閉じ込めるように降っている、と観た。
翡翠の緑を基調として統一された画面の中、彼女らの言えない言葉、漏れ出したこころを、封じ込める。スコールはその激しさゆえに天然のカーテンとなって(※2)外界を遮断し、室内の静けさを際立たせるのだ。これも遣らずの雨、か。

雨の他にも、映画は水の表現に溢れている。首筋を黒く這う濡れ髪、漂う漠とした湖、波紋の声がきこえる盥、壁に貼りついた足跡…
水は人の周りにも内部にもあって、身体の窪みや孔に応じてかたちを変えながら、彼女から彼へと伝って移ってゆく。高温多湿な環境ならではの茹だり絡みつくなまめかしさが、水に委ねられている。

トラン・アン・ユン監督の過去作にあたる『青いパパイヤの香り』から引き継がれる絵面や要素は多々見つけることができるけれど、中でも受胎・妊娠は今作のひとつのキーとなっている。(割られた果実からまろび出る真っ赤な果肉や、鶏と卵の仄めかし。)

三姉妹というキャラクターの元型はそれこそ神話の世界から『マクベス』まで数々見られ、散見される特徴としては《三位一体》がある。三姉妹は月の満ち欠けや女性の一生等々に重ねられ、要するに役割分担をしているイメージだ。
今作の三姉妹も、年齢に応じて経験するイベントが少しずつズレつつ予告しあっているようで、連綿と続いていく流れを想起させる。子を持っているか否かはその象徴的な転換点・接合点となっているようだ。長女は既に子がおり、次女は妊娠が発覚し、三女は受胎に憧れる(あるいは妄想する)という感じ。

しかし、劇中のある展開において、長女は《次》へ進む(変わる)ことを拒み、妻という現状の役割を維持することを望む。これにより、次女や三女に訪れる「はずだった」変化もまた堰き止められた、という印象が残る。
冒頭では父の命日を祭る行事の準備をしていたところが、結末では母の命日へ。移行しているようでありながらある種の円環構造であるようにも思え、彼女たちは甘い危うさを孕んだままこの時を永遠に繰り返していくようだ(※3)。「誕生日よりも命日を」、つまりは変わるものより変わらないものを。

しかし、終わりの見えない雨季もいつかは乾季に取って代わられるだろう。そのとき、彼女らの密やかな時は日なたの下で終わりを告げるのか。あるいは、霧雨の向こうへと滲んで忘れられてしまうのか?

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※1:キス以上の直接的なシーンはない。なのになのに、このえろさ。

※2:とはいえ、メイキングを観る限りけっこう人力で「降らせて」るっぽいんだけれど。

※3:終盤ふと明らかになる、三女の不自然な少女性=性知識のなさもこう考えるとなんとなく理解できる気も。