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ゴダールのリア王のTnTのレビュー・感想・評価

ゴダールのリア王(1987年製作の映画)
4.8
 シェイクスピアの「リア王」を現代劇として作り出す過程の物語。「リア王」という壮大さを感じない、ダダイズム的に崩壊する映画の形。案の興行的に失敗、これを作らせたプロデューサーがかわいそう。それでもジャンク品に近い面白みはあるので楽しめた。やはりゴダールはB級映画愛好家なだけあり、最低限映画として成り立つギリギリをせめている(せめすぎではあるが)。あとはやはり難解なので何回か見たい(見終わってまた見たくなるクセの強さがある)。

 「リア王」をベースにした作品では黒澤の「乱」が有名である。ただ「乱」が最大値100に達していると例えるなら今作品は1であろう。ゴダールはそもそも100を目指しておらず、最小単位1に向かって進んでいる。自分はそういうことだと思って見た。

 あらかじめ予想された失敗作。冒頭から脚本家とこじれたというゴダールの声と、役者に振り回されつつテイクを重ねる映像。はなから完成させる気がないのだ。「リア王」という問いばかりが重なり、本筋からはずれていく。むしろ「リア王」からの脱却や脱構築があり、ダダっぽい。有名人をこれでもかと素人に仕立て上げる(脱色化)。音のピッチを落とす。カメラズームはカクカクしている。豚の鳴き声や屁の音、スープをすするズズ・・など若干不快な音が入る。あらゆる既存のオーラを壊していく。「リア王」を期待した観客はほとんどコケにされた気分だろう。「ウィークエンド」の反抗の再来とも言えるだろう(ベクトルは違うが)。

 リア王で再現されるのはリア王とその娘コーデリアとの話のみ。コーデリアが沈黙せず「no thing」と答えたことの重要性が延々と説かれる。「no thingとは愛しているということだ」という台詞にはまだ思考が追いつかなかった。何度か見直したいところだ。

 戯画化ともなんともいえない登場人物。現代にシェイクスピアを蘇らせ、草の中波の中でメモを取りまくる彼の滑稽さ。またゴダール自身がプラグを頭からさげたプラギー教授として少々下品でヤバい奴を演じる(屁もする)。また現代にリア王と同じ運命をたどろうとする親子がいるという設定の変さ。妖精役も現代アレンジだから普段着で登場。演劇でも映画にある既存のドラマでも本でも表せない謎の人物表現。演技か素なのか、役なのかわからない状態。映画だからこそ許されるのだろう。関係ないが、ゴダールの話す英語って、バロウズのような味わいがあって面白かった(口をひん曲げてしゃべっているからかもしれないが)。 

今作品は平倉圭著の「ゴダール的方法」という本が取り上げてなかったら見なかったであろう。この著書による今作品の解説は、ゴダールが追求した「かけ離れてかつ正しいイメージ」についてだ。今作品は「リア王」以前にゴダール演じるプラギー教授によるイメージの授業でもある。これは映像を勉強する者にとっては面白いものだ。ただ、「ゴダール的方法」という著書なしにはなかなか理解できない。プラギーの言う「show, not tell」という言葉通り、今作品は視覚的提示から”見る”しかないのだから。

 行き着いた果てのイメージ。彼はイメージに取り憑かれ、編集室に20年こもっているという設定である。そして彼は劇中後半に「イメージの正体、そんなもの知らなければよかったのかもしれない」と嘆く。彼の脳内をよぎるある強烈なイメージ。花束の花を”植え付けていく”イメージ。明らかに花をむしる映像の逆再生なのだが、その復活の、不可逆を可能にしてしまうような強烈さ。そして映像の欺瞞さ(花を摘むという暴力性)も露呈する。このシーンの後、プラギーは死んでしまう。復活という希望と、花を摘むという現実の行為の狭間で苦しんだのだろうか。かれの首元にはその摘まれた花が飾られている。結局、プラギーこそ「リア王」の孤独を抱えてしまっているのではないだろうか。「isolated man, lonely」というリア王での台詞はまんまゴダール自身に返ってくる。
 
 プラギーの死後、彼のフィルムは回収された。誰かのテープを誰かに託す、この流れは「アワーミュージック」に似ている。そして託されるのがまさかのウディ・アレンである。晩年はゴダール自身から誰かに託すという行為が映画を通してひっきりなしにおこなわれているように思える。それを受け取る人が果たしているのだろうか。
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