カラン

泳ぐひとのカランのレビュー・感想・評価

泳ぐひと(1968年製作の映画)
4.0
ディヴィッド・ホックニーという画家がアンディ・ウォーホルの1世代後にいて、ずいぶん高値が付く画家なのだが、彼の最も有名な絵が西海岸の裕福な邸宅のプールの絵である。他方で、こちらの映画は東海岸らしいのだが、ホックニーにとても似ている。ゴージャスなのにがらんと孤独で、明るい陽光が白々しく虚しい。

裸の王様を描きたかったのだと思う。アメリカ的物質主義の男を文字通り裸にして、自分こそはまったく何も所有していない裸の王様なのだという厳しい現実認識に追い込んでいくための通路であり、かつ、生の(=裸の)認識から主体を保護する羊水的幻想の舞台が、プールであったのだろう。こうした設定はファンタスティックでロジカルで、明快である。

冒頭、手持ちの移動撮影で草むらをぐらぐら揺らす気持ち悪くなるショット。明るい人の気配に向かって草を揺らしながら接近していくさまは異様な不気味さを撒き散らしている。それが、ぱっとホックニー的なプールの光の開かれにいたるのも、実に気持ちがいい。

馬と走り、跳び上がり、バカバカしいほどに軽薄な映像で、水色の縞模様のビキニの若い女が肉を揺らしながら野原を駆ける。一緒に森の小道の暗がり消えていくと、映画は危ない親密さを露出しながら、裸の王様の認識を少しずつ破壊し始める。認識論に興味があると、かなり気持ちが良い。

ディゾルブが汚いなと思いながら観ていたが、見終わった今思うに混濁した認識の変容を予見するイメージだったのかもしれない。プールのショットも浅薄な画に留まるのは王様的行動の無意味さの象徴という映画内の要請であるのか、それとも、カメラの想像力という撮影側の問題なのかは不明。もう少し映画的な旨みを追求してもよかったのではないかと思う。水中撮影の妙を期待していたので、余計に残念に感じた。

ラストはゴースト化した自宅の廃墟。海パンで冷たい雨に打たれてドアにへばりつき、さらに涙を流して震えながら真理を拒絶する姿は、かなりの高揚感をもたらす。
カラン

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