ニューランド

ロシアン・エレジーのニューランドのレビュー・感想・評価

ロシアン・エレジー(1993年製作の映画)
4.4
20数年ぶりに、商業映画の枠、西洋的文化の形、としての映画を気にすること無く、最も己の精神に忠実に、気のおもむくままに自由に筆を運んでるように見える、最も親日家といえるだろう側面も持つ、フィルムもビデオ(デジタル)も同じ如意毛筆のニュアンスで使いこなす、稀有で貴重で他分野のアーティストにも胸を張れる、唯一の映像作家の、当時私が観れてた範囲での、最高作を再見す。当時は、華々しく喧伝された’92のレンフィルム祭上映作(ここより、ソクロフブームが暫く沸騰し続けた)が、’80年代終盤から上映され始めていた初期紹介作品群に比べ、少しだけ期待はずれだったので、やっとこの人の本来の作風、それも頂点に接したと熱狂した。自己の深奥の眠っていたような最もプリミティブな何かを呼び起こすような、自分がなんであるかをイメージしてくれる、いやフォルム化してくれるような、貴重なある意味自分だけの、理想の映画、映画の理想といえるもので、似た想いを受け取った映画は限られている。『ざくろの色』『幼年期の情景』『爆音』『河(’51)』『エイジ・オブ・イノセンス』『弦走』『郊遊』。
実は消去したのだが、消す前のこのスペースには誰が見ても映画の中の映画という作品をリストアップしていた。というのは上映が終わり、明るくなると左隣の席の人がその更に左の人、しかもおそらく全く面識のない人に、真顔で「これって映画? こんなのあるんですかねぇ。」と押さえきれず疑問を投げ掛けていたからで、聞かれた人も何も答えず立ち去ったが、私は少し冷水をブッかけられた気がして、こちらを向いたら、一般的高名作を挙げてこれらとなんら変わりない名画中の名画ですよ、という準備を瞬間したのだった。本作の前後、会員で何を何本観ても定額という環境で『1987』『バッド・ジーニアス』という今の人気作を見て、代表的な歴史観or生活感を、求められる模範的スタイルで描いてて、秀れてるし面白いし勉強させられるし、快感・手ごたえも充分あるけど、何か違うと思ったばかりだった。
確かにここにあるは今挙げた人気作に比べても、ゴミか屑のようなものばかりで、しかも内容・関連性もなく羅列されてるだけだ。唯一クラシックが時おり美しく流れるが、多くは年輩の下層の女らの会話というよりしゃべくる声、かすかな風音・雷鳴・寝息、簡単にのっけた砲声の積極意味のない音声のニュアンス。暗いとき多く(刻々明るさが変わり拡げる)物の輪郭すら定かでなく、色彩も沈んだブルー~グリーン、淡いオレンジ~ブラウンが微かに感じとれる位でいまどきどころかニ原色時代のカラーにもとる感、そればかりか傷も多く劣化した20C初めのモノクロ記録フィルムの長い援用。なんとも一見取材・採集の手間を省いた安易な造りなのだが、それ・フィルムを扱う手つき・見つめ・掘り起こし自体が、その細心さ・優しさ・仕上げによって、かけがえのない真の世界そのものに変貌してゆく。『トム~』のジェイコブスや『~自画像』のゴダールに似たスタンスだが、より作為は感じられなくしてある(単純でもスノウあたりにはしっかりしたコンセプトがある)。
写るは、暗闇から見えてくる(死人の)手、老いた病人(の縮こまりや汗のたまった喉のへこみ)、草地と小さくもくねった川、その背後の林か森、少し浮き上がった細い中央を横切る小道、それらを被う雲の多い空と時折の雷光、そよぐ草と川辺のシダの密生、池にところどころはってる薄い氷。そして引用される旧いスチルに写ってるは、川原の広めの剥き出しめの土、時代によって変わる川原の家の立て込みの数や教会、船着き場と小舟上の人々、カメラに表情を送る座って密に集まってる地域の女や男ら、高い木の並木路、第一次大戦時か歩兵らと大小の砲筒、その発射と森への落下・被害ら。そして当時の動くムービーとしては、半ば瓦礫の残った街を歩きくる将校ら。
しかし、シダや長丈草の描写等が重ねて捉えられてくなかに鶴が一瞬見え隠れし、ゆっくりした多くは僅かめのパンニング(と戻り)だが、池の薄氷張りや後方の林をやや例外的に長めに捉え戻るなかに赤ん坊の肌と着付け・そしてカメラレンズ自体に写り込んだ光芒の穏やかだが偶然的なちからを持つ極めて印象的な明るいオレンジの暖色・生気が入ってくる。なにか、あり得づ息づいてるような、隣り合ったカット間のありかたも感じてもくる。(引用スチルに関し特に)寄り(に見える拡大切取り)・90゚変やどんでんの返しや(位置や時間的)対応(のあたかも緩いデクパージュの存在、フィルムを裏返した?)の手つきや、ディゾルブやF・Oのやさしく自然なリズム。それらは、映像という生命の誕生を感じさせる。カメラとフィルムの、プリミティブな人と世界の出会いと関係をそのままに表したかのような微細な鼓動・震え・触感を手にできる瞬間に巡り会ってゆく、身近な日常と奥深い荘厳さが溶け合うのを感じてゆくうちに。表現かどうかの限界の関わり創るという行為、現されたもの、が最大の力をくれる。
個人的な、この作家への感銘のピークは、本作と続くビデオ作品『精神の声』あたりで、以降は自己を引き上げ拡げてくれる、歴史・紛争・血縁・文化に少しスライドした題材で、レベルの同列・維持はあっても、のり越えには届いてない気がする。
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