パングロス

METライブビューイング2023-24 ヴェルディ「運命の力」のパングロスのレビュー・感想・評価

2.7
オペラは大好物だが、ヴェルディは好きになれない。

『オテロ』と『ファルスタッフ』は、かなり好き、『マクベス』と『ドン・カルロ』も、まぁ聴ける。
だが、『イル・トロヴァトーレ』や『運命の力』は、ナマで観たかどうか曖昧だが、少なくともライブビューイングの類で3パターン以上ずつ観ているはず。だが、相変わらず、ちっともストーリーが頭に入って来ない。

今回は、ポーランド出身の映画監督マリウシュ・トレリンスキによる、舞台を現代に設定し直した、読み替え演出。
ところが、今回も、ヴェルディ嫌いは解消されないどころか、かえってこじらせたかも知れない。

【以下ネタバレ注意⚠️】




午前10時開始の回だったこともあり、第1幕、肝心のカラトラーヴァ侯爵が死ぬ場面の前後、ついウトウトと寝落ちして見過ごしたせいもあったかも知れない。

レオノーラが修道院に(本演出版では高速道路を運転して逃走中、事故に遭って負傷した姿で)駆け込む第2幕第2場からは、はっきり覚醒していたのだが、共感どころか、舞台で行われていることに全く何の感慨も持てなかった。

幕間の休憩時間に慌ててWikipediaを開いて、本作のあらすじを確認して第3幕以降に臨んだが、やはり劇中の世界に入り込むことは難しかった。

ワーグナーの楽劇なら、舞台や人物の設定を現代のそれに置き換えることは、現在むしろ演出の多数派を占めている。

今回のシリーズで、3月に観た、リチャード・エア演出の『カルメン』(2024.3.13レビュー)も設定を現代に読み替え、カルメンをヒップホップスターとして造型していた。
演出の意図を体現したカルメン役のアイグル・アクトメチナの好演も相まって、この読み替えは、かなり成功していたと思う。

ところが、本作の場合、どうだろうか。

まず、劇作品として台本がしっかりしているワーグナーやビゼーの作品と違って、本作『運命の力』は、従来から言われてきた通り、台本の質があまりにも低い。
『イル・トロヴァトーレ』にしてもそうだが、ストーリーの進み具合が支離滅裂で、伝統的なスタイルの演出で観ても、今どういう脈絡で何が起きているのかさえ、確かに把握することが困難なほど欠陥の多い台本(リブレット)なのだ。

幕間のインタビューで、トレリンスキは、本作に終始暗い影を落とす「戦争」という背景について、ウクライナで起きていることを見て理解できた、と語っていた。
だが、そんな意図を云々する以前に、そもそも本作の現代への読み替えは、効果を発揮するどころか、違和感の方が明らかに大きかった。

ノルウェー出身のリーゼ・ダーヴィドセン演ずるレオノーラと、ロシア出身のイーゴル・ゴロヴァテンコ演ずるドン・カルロ兄妹の父親カラトラーヴァ伯爵を、黒人歌手のソロマン・ハワードが演ずるのは、映画ならあり得ないが、キャスティングにおける人種差別を完全排除した欧米の舞台芸術では、当たり前のこととして受容しなければならない。

しかし、そうであるなら、時代設定さえオリジナルの設定を変更するのだから、そうしたキャスティングによって違和感を生じさせないような工夫が必要だったのではないか。

いや、キャスティングにおける人種問題に異議を申し立てるつもりはない。

ただ、本作のトレリンスキによる「読み替え」演出は、最初から最後まで、そとみ、ガワだけの現代化にとどまり、ついに歌手という俳優たちの演技そのものにはノータッチだったのではないか、と言いたいのである。

幕間インタビューで、トレリンスキは、自分は映像の世界出身だということを盛んに強調していた。
確かに幕間ないし幕前に、高速道路を逃亡するレオノーラが運転していると思しき自動車が暴走するさまとか、戦時下の森を行軍する兵士たちの姿とかを、具体的な映像として映し出していた。

だが、「現代化」の読み替えも、舞台装置と、演者の演技によって、本来行われるべきで、それをおろそかにして映像の力に頼るというのは(いくら得意分野だからと言って)、舞台演出の敗北ではなかろうか。

確かに、『運命の力』は台本自体が酷いシロモノだ。
だが、今回のトレリンスキによる現代化演出は、そうした作品自体の欠点を補うどころか、かえって観る者に不要な違和感をさらに加えただけ、だったのではないか。

おかげで、私のヴェルディ嫌いは、さらに悪化してしまった気がするのであった。
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