くまちゃん

月のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

2016年7月26日未明。神奈川県相模原市にある障害者施設「津久井やまゆり園」にて元職員であった当時26歳の男が刃物を所持して侵入、入所者19人を刺殺、入所者、職員含め計26人に重軽傷を負わせた。日本中を震撼させた当時戦後最大の連続殺人事件は無差別ではなく選別によって実行された。その驚くべき犯行動機は「生産性のない無駄な物の排除」だった。妄信的で身勝手な犯人の言には恐怖とともに怒りが湧いてくる。たが、本当にそれだけだろうか?
例えば障害者らしき相手を確認した時に心のどこかで自分は健常者でよかったと安堵していなかっただろうか。
例えばアルツハイマーの進行した老人は同じ話を無限ループで繰り返し、こちらの話も言ったそばから忘れ去る。そんな日々の会話に辟易していないだろうか。
例えば生まれてくる子供に障害があったらどうしようかと不安に苛まれていないだろうか。今作の主人公堂島洋子のように。

差別などあってはならない。それは誰もが理解している。だが自分が障害者になりたいわけでもない。それは絶対に受け入れられない。市井の何気ない普通の日常に潜む差別意識。この事件を起こした犯人は精神が特別だった訳では無い。少なくとも今作では限りなく普通の青年として描かれている。では何が彼を変えてしまったのか。

誰より真面目で、手作り絵本の読み聞かせをする「さとくん」。彼は入居者達に寄り添おうと努めていた。一方、施設内では入居者に対する暴力、暴言といった虐待行為が常態化していた。所長もそれを黙認し、他の職員も見て見ぬふりをした。

心は目に見えない。だからこそ肉体的サインを読み取り心情を推測せねばならない。しかし中には言葉を発することもできなければ動けないものもいる。意思の疎通が困難な相手の心はどうやって知れば良いのか。わからない。わからないという事は断言すべきではないという事だ。入居者の中には生きたいと感じていた者もいたかもしれない、職員の中には洋子のように入居者に親近感持つ者もいたかもしれない、入居者の家族には意思疎通が困難でも見えない情報を精一杯汲み取り、無償の愛情を注ぎ続ける者もいるかもしれない。我々は同じ人間だ。健常者の中にも考えが分かりづらい者もいれば、思考と行動に矛盾がある者も多い。わからない以上、重度な障害を持つ者たちに対し心があるという前提で接する必要がある。言葉が話せない、動けない、排泄の処理も自分でできない、だから本人も周囲もみんなが不幸だ。それは他人が決める事ではない。幸福度は主観的なものであり他者には絶対にわかりえないのだ。
今作には明確な答えなど存在しないのだろう。それでも犯人の独善的かつ鬼畜外道の所業がもたらしたこの結末は、本人の学童期から変わらぬ稚拙で確固たるアイデンティティ、大麻使用、暴力の正当化等、危険極まりない優生思想による誤謬にほかならない。

心の有無は人間かどうかの判断基準としては不適当だろう。「生産性」という事務的で無機質な言葉は今どきの若者というイメージを与えるが、無駄なものにこそ物事の本質は潜んでいる。無駄とは不必要という意味ではない。誰かにとって必要ないものは他の誰かにとっては必要だったりする。「生産性」のない非人間的な者を排除するのが国のためなら、なぜ嘆き悲しむ遺族がいるのか。なぜ犯人は死刑判決が下ったのか。事件発生当時世間に伝播したこの戦慄はいったいなんなのか。最悪の事態に駆けつけた高畑淳子演じる遺族、あの慟哭こそが入居者とその家族の関係性を象徴しており、全てを物語っている。
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