ニューランド

私の父は正しかったのニューランドのレビュー・感想・評価

私の父は正しかった(1936年製作の映画)
4.6
 ギトリの名前は、国内のフランス映画ファン(彼の名作は『トランプ譚』に限られてた)よりも、仏留学帰り、NV礼賛者が勢いに任せてかなり以前から大々的吹聴・映画祭での取りあげ、をしていた記憶がある。しかし、'80年代まで、上映が戦後作品や歴史語りものに限られてたせいもあり、私にとっては、ビッグネームではなかった。90年代になり、やっと誰もが押す上記作を、TVやスクリーンで観て、賛嘆に値する真価を知った。そして、21世紀に入ってまもなく、本作のあり得ない堂の入り方と作品の確度を観て、フランス映画史有数の作家を確信した。その後の20年間でヴェーラや日仏でこの作家の特集は人気定番化して、旧いのもかなりの数観られるようになったが、未だにこの作家の中でも、私の内では、『カドリーユ』などと、この大作家のベストを競っている。
 20年間、10日間位、を挟んでの、ある邸の家族や恋人の色々な出会い・再会の組合せパートが繋がる、計3日間の、場も時経過も人物も絞り込んだ、極めてイージーシンプルな作。しかし、特に構え意気込んでもいないのに、その会話のボリューム・内容・速度の密度・濃さ、映画話法・技法のいつ知らずの、驚くべき革新跳びだし・ど真中嵌まりは、あらゆる文化表現の頂点を実現し、また留まらずリレーしてく。反動も革新も判断させぬ、底力が圧倒的に伝わってくる。
 「いい歳して、もうパパなんて呼ぶな。それがいいのか。お前は嘘を決してつかない主義だが、使い方によっては有用で楽しくにもする。やはり、嘘の快感は大好きだ。歳を操作すれば、歴史的な遭遇の捏造もできる。女は信じない、恋は信じるが。若い女は裏切り平気で奔放、その美だけは信じられるが、寡婦の歳になって結婚に目の色変える。男は独身を通すべきだ。私もお前の年頃には、公平・誠実・正義・仕事と家庭のベースを信じてた。が、その無意味さを父に教えられ、父の正しさを歳を重ねて知った。お前のように、若くして結婚すべきではない。孤独が怖くないかって? 嫌なやつと一緒に居るより遥かにいい。誰も信用できなくていいんだ。限られた場合の友人を除いて。幸せな家庭か? 不幸も幸福の一部なのに。苦しみのさきに別の世界がある。私はこの調子を変えないさ」来訪して軽々宣う72才の老父に対し、その前に居間で話してたのは、姿を認めて「入れ」と声かけられまで気配を与えるだけで執拗に部屋へ入らぬ8才の子と、仕事中背を向けてて見られないので感づいてもそうは頑なにしない30才の父、の証拠や相手の確かでしかない存在を求めずにはいられない、真面目堅物健気振り。
 技法的にも、極めて平明な組立に見えて、デクパージュに見えて、一つ一つのカットが、独立なまみで活きてるような、反一般商業映画的な大胆不適なもの。人の振る舞いに併せて軽くパンやティルトで、フィットしてく自然体の内外や別部屋のカットが交錯するも、ワイプ等ある一方は、短く異質に強い切り居られ方で、レネ的ともいえるが、中心組合せの(90°変)切り返しや縦どんでんの対応・組立は、立体や位置と向き、纏まりに対し、嘘でもついてるような、セオリー泣かせ、イマジナリーラインも半ば消える。その間のパンから歩き方フォロー(斜め)前後も、かなり独善繋ぎ。やがて、次のパートになると、やや動くだけの固定も長めの自熱が、内からくるを待つような落ち着きか腰据えたどんくささが、中心に。更にパートが進むと、DIS軽く繋ぎの無人部屋のカメラ能動鋭いなにかを見つめ起こすような左右移動の才気に。また、そこに人らが戻ってきても、普通のフォローを才気や大胆飛ばすパンや横め移動が、引き続き加わり、場と空気の混乱をシャープに変えてく。やがて、様々な人間性自体が、自ずからの風体・姿勢を変えて出入りを繰返し、愛すべき狂い方を体現してく。ラストは父と息子カップルが手を繋ぐように階段ん上がってくのの、仰ってのナチュラル悠然移動だ。
 冒頭から、使用人らの鋭い反応カット挟み、妻の夫への電話、息子へ父単独教育の伝え、20年後息子に後続託す伝えの日、褄の復縁依頼電話、息子の恋人の元針子の訪問と相談、旅行へ息子ら送り出しと元妻の来訪、旅の間の父豹変に戻った息子の心配、元針子を含めての波乱へ。
「私も妻も、繊細過ぎて、妻は外出が多くなってきてる。……何! もう、帰らない? でてったまま、それを電話だけで伝えて消えるのか、許せん……電話は終わった。入ってきてもいいぞ。もう、お前を寄宿学校にはやらん。実は私はフランス史を教えられる。その他もそうだ。私が全てを教えてく」「20年前と同じに(8才の背の)低い位置をノックしたのか。これでお前に教える事は全て教え尽くした。これからは仕事も全部お前に任せる。財は充分成してある。50になり私は、10年は表立っては何もせん。興味ないように見えたろうが、これからは、貯めてたお洒落や遊びの興味へ向かう」「何? 貴女が息子と付き合ってる人で、私にこっそり逢いに来たって?……そうか、稀なる優しさの息子だが、孤独な私を1人でほうっておけないと、貴女とずっと居る事をしないし、いつか女は電話1本で去ってく恐怖にとりつかれてると。二人の仲は進まないと、私に貴女はその友人をお相手にと、紹介・世話しに来ただって?」「お前は電話一本で去り、また電話一本で戻って来た(息子はそれを今も苦しんでる。それでも息子の為に離婚はしていない)。アメリカに渡ったは聞いていた。それが夫が亡くなったからと、自分の居どころをここにし、それを息子に聞いて貰うと? 何? 自分の罪はあの後の生き方で償ったと? 他人に貞淑を守って何になる。ン? 逆に性の乱脈を尽くしたのか。少なくとも10年は戻るを認めん。そうか、表面的な認めで満足、引き下がるでいいのか」「私の派手さ、家具の古いものの入れ替え、の急さに私が狂ったのではと使用人らから聞いたのか。それに騙して彼女が私にこっそり逢ってて隠してた嘘が許せないと。お前は微塵の嘘も許せない、のだったな。しかし、私も勧めた彼女との旅行を何も云わず、予定より伸ばした嘘をお前はついた。要は幸せを実現する為の嘘は歓迎されるべきなのだ。但し、他人の為に自分を二の次にする嘘は駄目だ。あくまで自分本位・自分の為に、戸惑いなく、嘘をつくんだ。(代々)私の父は正しかった」
 独善的だが、各人・各場の語りの、なんと云う密度・濃さ・自己ベース戻し。すっかり納得もさせられるので、行き過ぎすら好ましい。しかもそれを積極定着しようともせず、同じ胆の据え方・自由はね方・王道突き破るシン・オーソリティで、固め突っ走る筆致。その引き合い。ただ、偉大で、変に啓蒙も逆説的にもされる映画と云いたい。映画を見始めた'70年代前半、映画史の中でも際立った黄金期、'30年代仏映画は、サイレント期からの長い経歴の名匠を除けば、ルノワール・フェデー・クレールの三大巨匠、ヴィゴ・パニョル・グレミヨンの特異派、よりポピュラーなカルネ・デュヴィヴィエ、らに尽きるみたいに、大雑把に教わり、その時は演劇畑のギトリなんてそれも軽演劇で全く上位にいなかった(トリュフォやレネが例外的に持ち上げてたか)。今、彼の存在は三大巨匠に肩を並べるどころか、トップのルノワールに肉薄して見える。
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