ナガエ

エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のナガエのレビュー・感想・評価

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ホントに、イカれた話だった。これが実話だっていうんだから、やっぱり僕の「宗教嫌い」はあながち間違ってないなぁ、と思う。

以前、大学時代の友人と、こんなような話をしたことがある。キリスト教だってイスラム教だって、元々はユダヤ教から分離した「新興宗教」だった。確かに今は「世界宗教」みたいになっているし、「キリスト教とかイスラム教とかは、宗教としてちゃんとしてる」みたいな扱われ方になってる。でも、結局は「新興宗教」「カルト宗教」みたいなことと変わりないんだし、となれば、オウム真理教と何が違うわけ?

一応書いておくが、僕は別に、キリスト教やイスラム教を個別に毛嫌いしているとかではまったくない。特定の宗教を信仰してもいなければ、特定の宗教を嫌ってもいない。僕は単に「宗教」というものがすべて嫌いなだけである。

ただもちろん、キリスト教徒やイスラム教徒からすれば、「オウム真理教と一緒にされるのは心外だ!」となるだろうし、僕としてもそれは、「あくまでも極端な主張をすることで、何に疑問を抱いているのかをはっきりさせようとしているだけ」なので、それ以上の他意はない。という感じで、この記事では、「何らかの宗教を信じている人」には不愉快な記述が盛り沢山だと思うので、何らかの信者である方は、早い段階で読むのを止めていただくのがいいと思う。一応繰り返すが、特定の宗教を攻撃する意図はなく、そう感じられたとしても、それは「宗教」という概念そのものを攻撃していると受け取ってほしい。

さて、本作は冒頭から「異常な展開」が繰り広げられる。正直なところ、無宗教(日本人は本質的には無宗教ではないと言われるが、ここでは「一神教を信じていない」という意味で「無宗教」という言葉を使う)の人間にはさっぱり理解できない状況だ。というわけでまずは、本作の物語がどのように始まっていくのか、その内容を紹介しよう。

1858年6月23日夜、イタリア・ボローニャに住むユダヤ人一家のモルターラ家に、ルチディ補佐官と名乗る人物がやってきた。家族の顔と名前を照合したいという。事情が飲み込めないものの、最初に対応した妻マリアンナと、補佐官の到着直後に帰宅した夫のモモロは、言われた通りに子どもたちを起こす。

ルチディ補佐官は、名簿に書かれた名前を一人ひとり照合し、7歳のエドガルドを見つける。そして、異端審問官フェレッティの命により、エドガルドを連れて行くというのだ。両親は状況が飲み込めない。ルチディ曰く、ある確かな情報筋により、エドガルドが洗礼を受けていることが判明したというのだ。緊急事態を知った知人がフェレッティに直談判に行くも、決定は覆らず、フェレッティはルチディに「事情の如何を問わず、24時間以内にエドガルドを移送するように」と伝える。

モモロはエドガルドの”誘拐”を阻止しようと色々と手を尽くすものの、結局どうにもならず、エドガルドはそのまま連れて行かれてしまった。後に分かったことだが、エドガルドの移送は、教皇ピウス9世(恐らくだが、当時のイタリアのキリスト教世界で最も偉い人なんじゃないかと思う)の承認を受けていたのだ。

このようにしてエドガルドは、家族から引き剥がされ、恐らく同じような境遇で連れ去られてきたのだろう少年たちと共に生活することになる。

というのが、本作『エドガルド・モルターラ』で描かれる事件の発端である。正直、映画の中でも、今説明した以上のことは特に情報として与えられない。なので正直、特に日本人には「何がどうしてそうなっているのか」が全然理解できないことになる。

映画を観ながらまず理解できたことは、「モルターラ家はユダヤ教を信仰している」ということだ。これはもしかしたら、冒頭から繰り返し登場するお祈りの文句なんかで分かる人には分かるのかもしれないが、僕にはよく分からなかった。なので映画をしばらく観ていて、「ユダヤ教を信じる一家の子どもが、キリスト教の洗礼を受けたこと」が問題なのだということが理解できた。

ただ、だからと言って何故連れ去られてしまうのか。結局これは、映画を観ているだけでは理解できなかった。鑑賞後に調べてみると、どうやらキリスト教の教会法には、「非キリスト教徒はキリスト教徒を育てる権限は無い」と定められているそうなのだ。そして、「洗礼を受けたらキリスト教徒と見做される」のだろう。これらのことから、やっと「エドガルドが連れ去られた理由」が、まあ一応は把握できたという感じだ。

しかしだ。普通に考えて、そんなこと許されないだろう。教会法だかなんだか知らないが、結局それは「いち宗教団体のルール」でしかないわけで、キリスト教徒以外には関係ない。にも拘らず、彼らは問答無用で強制的に子どもを誘拐していくのだ。凄まじいことをするなと感じた。教会側は、子どもを返すように訴える両親に、「ご家族が改宗すれば、エドガルドは家に帰れます」と告げる。これも教会法のことを知らなかったので意味が分からなかったのだが、要するに、家族がユダヤ教を捨ててキリスト教に回収すればキリスト教徒であるエドガルドを育てるのに障壁は無くなる、という話なのだろう。理屈は理解できるが、「だからなんだよ」としか感じられない。

マジでやべぇことするな、キリスト教。

さて、本作は「息子が連れ去られたモルターラ家」と、「エドガルドと、エドガルドを連れ去ったキリスト教側」の二者を描き出すことがメインなので、それ以外の描写は少ないのだが、この「エドガルド・モルターラ誘拐事件」は、当時のボローニャで大問題になったそうだ。いや、事はイタリアだけには留まらなかった。ヨーロッパ中のユダヤ人が抗議したし、その騒動はなんとアメリカにまで届いたそうだ。世界的に、かなり大きな問題として取り上げられたようである。

そのことが分かる場面が少し描かれる。教皇ピウス9世が部下的な人から報告を受ける場面だ。そこでは、「ナポレオンも遺憾の意を示したそうだ」「銀行家のロスチャイルド家も抗議している(カトリックはロスチャイルド家から100万ポンドを借り入れていたという)」など、世間からの猛反発の話が届くのだ。その話を聞きながら教皇が見ているのは、「エドガルドの誘拐を指示した教皇」を風刺する絵である。とにかく、一般市民の感覚からしても、「エドガルド・モルターラ誘拐事件」はまったく許容できなかったようである。まあそりゃあそうだろう。どう考えたって、まともじゃねぇ。

しかし教皇は、世間のそんな声を全無視する。彼は、「国王であれ皇帝であれ、私の答えは”拒否”だ」と言って、誰からの説得にも応じるつもりがない意思を明確に示すのだ。別のある場面で教皇は、彼に嘆願にやってきた人物に「お前は正気を失っている」と声を掛けるのだが、「いやいや、正気を失っているのはお前だろ」と突っ込まずにはいられなかった。

とにかく全体的に、キリスト教がヤバヤバだった。こんなん見せられたら、「オウム真理教と大差ないだろ」と言われても仕方ないだろうと僕は思う。

ただ、個人的には、「ユダヤ教を強硬に押し付ける家族」も醜悪に映った。父親のモモロのスタンスはちょっとよく分からなかったが、母親のマリアンナは割と、「ユダヤ教を信じないなら家族ではない」的なスタンスを貫いていたように思う。僕からすれば、「マジかよ」って感じである。意味が分からない。だから、本作における「目に見える振る舞い」で言えば、そりゃあ明らかにキリスト教が悪いのだが、「年端もいかない子どもに、大人の都合で宗教を押し付ける」という意味では、教会もモルターラ家の家族(というか、主に母親)も大差ないなと感じた。どっちも、僕的には、全然許容できん。

だからホントに思うのは、「『一神教』という概念がすべて悪い」と僕は感じる。

「一神教」について考える際に、いつも頭に浮かぶことがある。遠藤周作原作の映画『沈黙』でのやり取りだ。当時の日本のトップ(織田信長か?)が、日本でキリスト教を広めたいと考える宣教師に対して、「あなたがたの宗教は認めるが、しかし今の日本には合わない」と告げる場面がある。そしてそれに対して宣教師が次のように返すのだ。

『我々は真理をもたらした。真理とは、普遍的なものだ。どの国でも、どの時代でも正しい。もしこの国で正しくないというのであれば、それは普遍ではない。』

僕は本当に、このセリフに衝撃を受けた。そして、「うわー、キリスト教、マジで無理だわー」と感じたのである。

日本のトップのセリフは、今で言う「多様性」のスタンスと言っていいだろう。あなたと私とは違うが、私はあなたのことを否定するつもりはない、だからあなたがたも我々を否定するのは止めていただきたい、という主張である。僕には、このスタンスは非常に真っ当で、真摯な態度であると感じられる。

しかし、映画『沈黙』に登場した宣教師はそうではない。彼らは「真理(=絶対的な正しさ)」に達したと思い込んでいる。そして、「絶対的な正しさ」というのは、時代や場所を問わず「絶対的に正しい」と考えているのだ。だから、「今この日本でも、我々の真理は受け入れられるはずだ」と主張する。そして何よりも問題なのは、この主張の裏側には、「我々の真理を受け入れない人間は間違っている」というスタンスが明確に存在することだ。

マジでやべぇなと思う。

僕は別に、自分の身近な人間が何かの宗教を信仰していても別にいい。いや、本当は嫌なので、そうなる前に止めはするだろうが、本人が最終的に決断するなら別に受け入れる。ただそれは、「僕に干渉しない限りにおいては」という条件付きだ。僕の考えや価値観に干渉しないのなら、誰がどんな宗教を信じようが本人の自由だが、僕に干渉してくるならマジで徹底的に戦うぞ、ってなもんである。

そうそう、「一神教」の話だった。結局「一神教」の問題というのは、「唯一神がいる」という発想にあると言えるだろう。本作でも教会が子どもたちに「神さまは1人」と教え込んでいた。そしてその教えは必然的に、「『我々が信じる神』を信じない者は間違っている」という発想に行き着いてしまう。だから対立やら戦争やら起こってしまうのだ。

だから日本みたいに「八百万の神」「ありとあらゆるところに神さまが宿ってる」的な考え方の方が平和でいいなと思う。そりゃあ、多神教の考えにだって対立や戦争は生まれ得るだろうけど、一神教ほどではないだろう。少なくとも多神教の発想からは、「非キリスト教徒がキリスト教徒を育てるのはまかりならん」みたいなルールは生まれないだろう。

みたいな、「何らかの宗教を信じる人」を全員敵に回すようなことをつらつらと考えてしまった。「宗教」は、確かに人を幸せする側面もあるとは思うし、そのすべてが悪だとは思っていないが、ただあらゆる要素を全体的に総合して考えた時に、「『宗教(一神教)』が存在しない世界の方が平和なのでは」と考えてしまう。

さて、「宗教」に対する文句はこれぐらいにして、もう少し映画の内容に触れておこう。

本作で最も興味深いポイントは、やはり、”誘拐”されたエドガルドのその後だろう。ここではその話には具体的に触れないが、ちょっと色々と考えさせられてしまう展開だった。「信仰」というものの奥深さみたいなものを感じさせられてしまう。エドガルドにとって、「”誘拐”されたこと」は果たして、良かったのか悪かったのか。エドガルドの描写がどこまで史実に沿っているのかもちょっと分からないのだが、本作のような展開には「リアリティがある」と感じさせられたし、色んな意味で難しい問題だとも思わされた。

個人的に、本作で最も好感が持てたのは、父親モモロである。彼は妻から、「エドガルドを取り戻すためにもっと頑張ってよ!」と尻を叩かれる。妻の目からは、モモロは弱腰に映るのだ。しかし僕的にはそれは、「弱腰」ではなく「中立」に見えた。モモロは常に「フェアであろうとしている」という風に感じられたのだ。

それが最もはっきりと映し出されたのが、ユダヤ人社会の有力者だろう人物から、エドガルド”奪還”のためとして、エドガルドに面会した際にある「嘘」を吹き込むように告げられた後の行動だろう。彼は結局、エドガルドにその「嘘」を伝えなかった。それが、ユダヤ教徒としてのスタンスなのか、あるいはモモロ個人の生き様なのかはよく分からなかったが、とにかく彼は、「どれだけ理不尽な状況であれ、自分はフェアに闘いたい」という感覚を抱いているように見えたし、その誠実さは僕には好ましいものに見えた。

キリスト教は長い歴史の中で様々な”過ち”を犯している。有名なところでは、「それでも地球は回っている」と言ったガリレオ(まあ、実際には言っていないみたいだが)を処罰したことなどが挙げられる。しかし1992年に、当時の教皇であるパウロ2世が、ガリレオに対する異端裁判は誤りだったと正式に認め、謝罪している。

エドガルド・モルターラ誘拐事件についてキリスト教がどのように対処したのかよく分からないが、これについても誤りだったと謝罪していてほしいなと思う。そうであればまだ、僕が感じている「キリスト教へのヤバさ」を少しは減らせられるように思う。まあ何にせよ、改めて僕は「宗教には近づかないでおこう」と決意を新たにした。あー、やべぇやべぇ。
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