ゴトウ

PERFECT DAYSのゴトウのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.0
アジアや日本についてのステレオタイプや欺瞞だらけなのかな?とちょっと心配していたのですが、自分はそこまで気になりませんでした。というか、平山のささやかな幸せは容易に破壊されうるということも誠実に描かれていたように思ったので、その日その日に自分なりに納得して「パーフェクト」と思える(思うしかない)生き方を送ろうとするもがきには素直に感情移入してしまった。麦くんと絹ちゃんが直面した、「文化」(あるいはコンテンツの消費)依存症的なアイデンティティの危機が平山には無関係なのは、新譜、新作を追わないからでしょうね。「Spotifyってどこにある店?」でも別に問題はなく、古いカセットの中から好きなものを選んで聴く。100円の古本を買う。「Z世代的」ともいえるかもしれないライフスタイルはしかし、経済的に選ばざるを得ない選択肢とも言えるかもしれない。そこに満足して幸せを感じられるのならいいのだろうけれど……Feeling GoodなPerfect Dayなのに涙は出る……。自分でその日一日をご機嫌に生きるように心がけること、Perfect Dayだったと自分に言い聞かせることはどこまで可能なのか?世界を(つまり他者と自分との関わり方を)改善しようとする『哀れなるものたち』のベラと、彼女なら絶対にしないような微笑みを湛えて毎日を積み重ねていく平山とをついつい比較して考え込んでしまった。

画面に映るものは美しく整えられているので、そこをウソくさいと思う人は思うかもしれない。役所広司が掃除するトイレはどれも綺麗だし、「ゲロがあるから嫌だ」というわりにウンチもゲロも画面内に映ることはない。銭湯のジジイたちは巧妙に、性器が画面に映らないように動き回る。湯船にタオルはつけず、しかし湯に浸かるまでは決してタオルを性器から離さず、アキラ100%ばりの高等技術。トイレや公衆浴場やセックスをどういうふうに映すかにその映画の色も出るのではないかと思うので、そんなところでも『哀れなるものたち』と比較してしまったりした。しかしながら、身内やトイレの利用者たちにも無意識に下に見られてしまう仕事の場として、素晴らしく美しい渋谷のトイレを映す皮肉は冴えているのではないかと思った。手洗い場の凝ったデザインはゴミを放置するスペースを増やすことになっているし、鍵を締めると中が見えなくなるトイレの使い方は観光客に伝わらない。ユニクロの柳井会長のご子息がパンフレットで意気揚々と説明する高尚なコンセプトは、どこまでも空回りしているとしか思えない。ばかりか、そこを清掃する平山の労働環境はお世辞にも良いとは言えないものとして描かれているようにも見える。突然仕事を飛ぶ同僚、その穴埋めの人員は派遣されず、長時間労働を求められて平山は怒りを露わにする。ご機嫌に過ごしているように見えて、「この仕事好きなんすか?」と問われて満更でもなさそうだった平山だって、少なくとも一日中やりたいわけではない。押上のボロアパートに住む老いた男の小さな幸せと、金持ちが考えた公衆トイレの高尚なコンセプトは本質的には関係がない(平山はトイレ掃除でも菓子の箱詰めでも新聞配達でも、一人自分のペースで進められるならなんだっていいはず)。

この作品を「公共トイレの新たな価値創出…」とか「アートの力を通じて清掃員の皆さんへの感謝や敬意を表したい」とか(本当にこうした歯の浮くような戯言がパンフレットに書いてある)いう角度で褒めれば褒めるほど、スポンサーのボンクラ具合が浮き上がる。ヴィム・ヴェンダースにそうした悪意があるかは別にしても、スポンサーがついたうえでこれが出来上がっていること、パンフレットの中で柳井康治の文章だけが、映画の中で描かれている平山の日々と本質的に無関係な、事業に関連するステートメントになっていることは見逃せない。「柳井一族や東京都の欺瞞、都合よく切り取られた東京の生活」みたいな物言いで今作を拒絶している意見を見たけれど、自分が観る限りは全くそうは思わなかった。何もわかってないスポンサーからは金だけ引っ張ってこられればいいのであって、映画を観ていないのかと思わせるような物言いで勝手に恥まで晒しているのなんてむしろ面白いし、捨て置けばいい。たけしや俳優たちと一緒に写真に写ろうとして恥をかいた夏野みたいなもので、むしろ痛快ですらある。もちろん、トイレの利用者の冷たい、もしくは無関心な清掃員に対する目はきちんと画面に映っていて、公共インフラを維持している末端の労働者に対するリスペクト(個々の労働者に対するものであって、オシャレトイレを企画する行政や広告屋に対してではない)は忘れてならないとも思わされた。長々と説明することになってしまった。確かに画面に映される平山の暮らしは美化されたものではあるかもしれないが、といってこの映画が「The Tokyo Toilet」の(あるいは行政の)プロパガンダになっているとは全く思わないというのが自分の感想。まぁ柳井にもいろいろ事情があって、言いたくても言えないことがたくさんあるのだろう(パンフレットの中に川上未映子との対談が収録されており、わりと突っ込んで映画の内容に触れる川上に対して、柳井は実質何も語っていなかった)。どうあれ、そういう事情はこちらとしてはどうでもよい。

どんなに忙しくても「はい、お疲れさーん!」を欠かさない飲み屋のお兄さん、何も言わずに現像した写真を渡してフィルムを受け取るカメラ屋のおじさん、選んだ本に一言付け加える古本屋のおばさん、淡々と繰り返される日々のなかでたまに新しい出会いがあったり、少しだけいいことがあったりすることが「木漏れ日」のイメージに託されているのだろう。しかしどこまでいっても人は陽の光を受けているだけの「木」にはなれず、ほんの少しのきっかけで容易にルーティンは崩されてしまう。霧吹きで濡らされる鉢植えと、雨に濡れる平山は近いようでいて遠い。労働環境が悪くなれば、いつもの飲み屋にもいけずにカップラーメンが夕飯になる。ママへの淡い思いが裏切られたと感じれば、コンビニで缶の酒を買う。ストゼロだったらやりすぎだったかもしれないけれど、自分なりの生活スタイルとスピードを保とうとしている平山も、ふとしたきっかけでインスタント、コンビニエントなライフスタイルに回収されかねない。自分なりの「暮らし」を維持するのは、経済的な面でも精神的な面でも容易ではない。まして、語られないがなにやら問題を抱えているであろう家族との関係や、一般に「大人」が果たすべきとされているであろう「責任」(たとえば所帯を持って次の世代にバトンを……みたいな)といったものは切り捨てて平山は生きている。新しい文化に触れないという個人的な嗜好だけならまだしも、向き合うべきであらう諸問題を無視しているのに、それでもなお“Perfect Day”を積み重ねていくのは容易ではない。それだけに、クライマックスに流れる“Feeling Good”と、涙を流す役所広司の演技は凄まじい。ルーティンの中に少しずつ現れる変化は、時に喜ばしくもあり、しかしやはり避けられない死や離別として平山を苦しめもする。「ずっとこのままでいられないのか」と呟くママの言葉も重く響く。夜の川の前で平山は何も変わらないなんてそんなバカな話はない、と言うが、自分に言い聞かせているように見える。押し流されていくこと自体は止められないのがわかっているがゆえに……。

ちょっとヤボなのではと思えるくらい、突然セリフで説明される「人が生きる世界はそれぞれ別で、繋がっていないかもしれない」という話。ニコ(絶対ヴェルベットアンダーグラウンド由来の名前だと思ったけど、平山の娘ではなかった)にもやがて、平山や母親と同じように、自分にとっての「世界」の範囲を線引きする日が来るのか。やはり、軽薄に響いた「金がないと恋もできないなんておかしくないすか?!」は、後からじわじわと効いてくる。街中を歩くホームレスの男の世界は、周りを歩いている人間たちとは断絶している。結局全てが資本主義リアリズムに収斂していくのか?と暗い思いにもなった。

田中泯の踊りはかなりの部分カットされているらしいのだけれど、歩き方だけで十分に他との断絶(それこそ住んでいる世界が違うような)が見える身体表現もすさまじかった。そのホームレスのようにならないのは、平山が元々はそれなりに経済的な基盤がしっかりした家の生まれだからなのではないか?というのも見え隠れする。妹は運転手付きの車で乗り付けるわけで、ボロアパートやトイレ清掃の仕事など信じられないという様子。「あえて」何も果たさず残さず生きる道を選ぶことと、生まれた階層から移動できないまま生きることはまた別の問題なのだが、この辺りは貧困を描くのではなく、あくまで「トイレの清掃を生業とする平山という男」を描く映画であるということなのかな。パンフレットにあったような、「自ら選んだ生き方」みたいなのはちょっと違うだろと思えてしまった。せめて押し流される姿勢を自分の快いものにするための営みを、俗世から解放された仙人のように美化するのはそれこそ欺瞞ではないかと。まして、田中泯の肉体を通して何か神秘的なもののように映されるホームレスは、渋谷区が(東京都が/日本国が)排除している存在なわけで、柳井ら日本側のスポンサーや共同制作者たちが的外れな言葉でこの映画を褒めれば褒めるほど、その厚顔無恥さを晒すことになっている。(さらに否定的な評も読みましたのでご参考までに共有します。少なくとも「こんなふうに生きていけたら」のコピーはちょっとおかしいだろとは自分も思いました。https://note.com/finto__/n/nfbd4e9a1c305?sub_rt=share_b&d=scJjSQxMkE)

「野球と宗教は……」のセリフとか、石川さゆりに浅川マキバージョンの「朝日のあたる家」を歌わせたり(伴奏はあがた森魚!)とか、日本描写の解像度が異様に高い部分がチラチラあったのだけれど、日本人スタッフがいい仕事をしたということなのだろうか。

余命わずかな状態で見つかった指名手配犯の男のこれまでの暮らしぶりが書かれた記事を読んだのだけれど、妙に平山の暮らしと重なっていた。何かから遊離して一日一日を積み重ねる生き方は、やはり死をゴールとしたものになってしまうのだろうか。使い道のなくなった知性を持て余し、束の間音楽や文学に耽溺して生きていたような書かれ方をしていたようなのだけれど、死んだ指名手配班が工務店で働いていたことを嘲る声を数多く見た。映画の中ならいいけれど、もしも実際に会ったら「本当にトイレ掃除してるの……?」と自分も眉を顰めてしまうのではないかとも思う。社会システムに馴染めなくても、その片隅で生きることをやめるわけにはいかない。はみ出しものの人生を切り抜いて、好き勝手に消費する態度に加担している自分のことも顧みざるを得ない映画だった。
ゴトウ

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