デッカード

夜明けのすべてのデッカードのネタバレレビュー・内容・結末

夜明けのすべて(2024年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

※すごく長くなりました。
お時間があれば。


『ケイコ 目を澄まして』で聴覚障害者の生きづらさと明日に向かって歩きだす希望を描いた三宅唱監督が、PMS(月経前症候群)の女性とパニック障害の男性の交流を描いた作品と聞き興味を持った。

今回もなかなか他者からは理解することがむずかしい病気や障害を取り扱いながら、当事者の人たちがどう生きていくのかを淡々とではあるが、ワンカットワンカット実に丁寧に濃密に描いていて印象に残る。

PMSの美紗とパニック障害の山添が出会うのは栗田科学というこじんまりとした会社。
当初お互いに自分の体や心の障害をどこかタブー視していて、よそよそしい二人がお互いにカミングアウトすることから少しずつ距離を縮め寄り添っていく。
ここも大切な描写で、当事者の人は自分の病気や障害をタブー視してしまい、あえて隠して支援を受けることのできない人もいることがさらっとだが描かれている。

映画は寄り添っていく美紗と山添の姿を静かに、時には笑いも交えて描くが大きな事件などは起こらない。
しかし、それは映画描写だけのことで、障害当事者にとっては毎日が恐怖の連続で、それが事件であることは声高には語られていない。

PMSの症状でイライラし過激な行動を取っては後悔して自分を責める美紗を上白石萌音が、
パニック障害の描写は少ないが、おそらく元いた会社は大企業でパニック障害を克服して戻りたいという人間として当たり前の向上心ゆえ栗田科学の人たちを寄せ付けない山添を松村北斗が、
大げさではない自然体を感じさせる演技で魅せる。
二人はお互いの病気や障害のことを理解し距離を縮めていくのだが、二人が恋愛関係になるような展開は避けられていて、かと言って傷を舐め合うわけではなく、それぞれの立場で互いを大切にしようと寄り添うやさしい姿が小さな描写の積み重ねで描かれていく過程はうまい。

三宅監督作品のうまさは障害当事者だけでなく、その人たちを取り巻く人たちを実に丁寧に描いている点なのだが、『ケイコ』に続き本作でもそこがしっかりと押さえられていて、作品の持つやさしさがしっかりと伝わってくる。

栗田科学の栗田社長はじめとした社員一人ひとり、山添の前の会社の上司辻本や同僚と後輩たち、すべての人たちが二人にやさしく接し大げさではない応援をしている姿には心動かされる。

栗田社長は自分の会社にいた星のことが好きだった弟を自死で亡くしているし、当初山添にやさしすぎて胡散臭い人間では?と疑ってしまっていた辻本も家族を自死で亡くしたという心の傷を持っているので、その行動にはちゃんとした説得力がある。
栗田社長と辻本は自死の遺族会で会っていて、それがあって山添を栗田科学で働けるようにしたのかは説明されていないが、二人が山添のことを本当に心配しながらもその気持ちを本人には見せない気遣いは見ていて温かい。
この映画で涙が流れるのは、山添が栗田科学で働きたいと初めて楽しそうに語るときに辻本が泣き出すシーンだけなのだが、自死で家族を亡くした辻本の心の痛みゆえ二度とそんな悲劇は起きてほしくない、山添には何があっても生きていってほしいという思いが溢れていて熱い感情が込み上げた。

栗田科学の社員の人たちも栗田社長の弟とはおそらく同僚で、決してそれを大げさに描いてはいないのだが、同僚が自死してしてしまった痛みは消えることがないのだろう。

栗田科学での描写は一見平凡で淡々としているのだが、実は障害者の社会参画についての一番大切なシーンが続いている。
栗田科学の社員一人ひとりが十分過ぎるほど障害理解をしていて、山添にしろ美紗にしろ本人が気づかないほどの距離感を保ちながら障害があることもその人の当たり前として接している。
栗田科学の人たちは決して障害を教科書的に分類し頭で理解しているのではなく、山添なり美紗なりを個人として見ていて、その人の持つ当たり前のこととして障害や病気を捉え接していることはこれからの障害者雇用における参考になるのではないかと思った。
障害には名前が付き、得てしてその障害の範疇で障害者がくくられて接し方など語られてしまうのだが、実際には同じ名前の障害でも当事者個人の症状はもとよりその人の個性や考え方、人生観など個人ごとに接し方は全然違ってくる。
障害を教科書的に理解することも必要なのだが、やはり一人の社会に当たり前にいる人としてその人と接することの大切さが淡々と続く栗田科学の描写にはしっかりと込められているように思った。
それゆえ山添が社員みんなに初めて差し入れを買ってきたときの、社員たちの喜びがあふれる描写には心に響くものがあった。

障害者の法定雇用率、つまり企業が障害者を雇用する義務が2024年4月からそれまでの2.3%から2.5%に引き上げられるタイミングでもあるのだが、障害者雇用の現場についてはあらためて深く考えさせられた。
障害者雇用が義務であることはよいことなのだろうが、実際の障害者雇用の現場では障害者の社会参画に協力したいと思っていても障害者雇用のノウハウがないため、どう接したらいいのかわからない、どんな仕事をしてもらったらいいかわからないと悩んでいる善意の企業は少なくない。
国の作った仕組みが、障害者雇用は義務なのだからその雇用率に到達していない企業からは罰金を取ればいいとなっていることは少し疑問。
罰金を取るだけではなく、本気で障害者雇用に取り組もうとしているノウハウのない企業に、雇用しようとしている人に対するオーダーメイドの支援を行う必要があると思っているのだが、違うだろうか?

話がそれたが、映画には嫌な人は現れず病気や障害に苦しむ人にみんなが温かく寄り添い、ともに歩んでいこうとする描写が続くのは観ていてやさしい気持ちになれる。

しかし、この映画がそこでとどまらず、"その先"まで踏み込んでいることには驚かされた。

プラネタリウムのシーンで締めくくりとして語られる栗田社長の弟が残したメッセージをどうとらえるか?
プラネタリウムのシーンでこのメッセージを聞くのは主役の二人だけではない。
それまで登場した人たち、自死の遺族会のメンバーなど心に傷のある人たちだけではなく、転職コンサルタントとしてバリバリ働いている女性やこれからを生きる中学生など障害や病気とは今は縁遠い人たちも含まれている。
このメッセージは本当にやさしさと希望の象徴だろうか?
私は違うと思った。
そもそも栗田社長の弟が綴ったこのメッセージは、逆さの測量野帳に無造作に走り書きされたもの。その時の弟の心理がどれほど何かに追い込まれ行き場を失い動揺した上で書かれたものであるかが暗に示されていると思った。
星を輝かせる夜に居たいと願う人のこと、暗い夜が早くあけて欲しいと願う人のことなど、人間の意思など関係なく容赦なくやってくる「夜明け」という天体の自然現象に翻弄されてしまう人間の弱さや危うさ、しかしそれでも抗おうと必死に自死を思いとどまろうと苦しんだ人の姿が見えてくるような気持ちがした。
星である自分の居場所のない「夜明け」に怯え絶望し死を考え、しかし「夜明け」は昨日とは同じではない、日々変わっていくものだという希望にすがろうと絶望と希望の間を何度も行き来し闘った人の残したメッセージは、美紗のやさしい声で語られるがゆえにやさしく聞こえるが背景は壮絶だ。
人間は希望を失い居場所をなくし絶望する。しかし、昨日とはきっと違う「夜明け」がくるという希望を信じ生きていこうとする。
それこそが人生そのもの、生きるということそのもののように思えた。
これは障害や病気のある人や心に傷のある人だけに向けられたメッセージではない。
だからメッセージが読み上げられるところには、この映画のすべての登場人物が、そしてこの映画を観ている人がいる。

強く輝く星が夜空では孤独で寂しく見えるのに、海を航海する人々には導く光となっているというエピソードはこのメッセージを書いた人を象徴している。

メッセージに象徴されるこの映画はPMSの人とパニック障害の人にフォーカスし、そこには当然その病気や障害への理解を深めてもらいたいという作り手の希望があるのだろうが、それにとどまらず映画を観るすべての人に「生きること」のきびしさと希望についてあらためて考えてほしいというメッセージが込められていると思えた。

ちょっと考えすぎなのかもしれないが、淡々としながら濃密すぎる描写が詰まった映画に、それでも生きていこうという希望を抱いたのは私の勝手な思いなのだとは思う。
少なくとも、今自分のそばにいてくれる人たちのやさしさをあらためて感じることができれば、この映画を観たことの意味はすべての人にあると思った。
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