Ricola

セルヴィアム 私は仕えるのRicolaのレビュー・感想・評価

セルヴィアム 私は仕える(2022年製作の映画)
3.0
日本では信仰は自由であり、どの宗教を信じてもいいとされている。
日本に限らずだが、世界中において、何を信仰するか、または何も信仰しないこと、そして信仰深いかどうかという点で、人々は自分の価値観を無意識のうちに押し付け合っているのかもしれない。
その結果、あまりにありふれた言い回しではあるが、「最も恐ろしいのは人間である」という結論に至るのではないか。

塵一つ落ちていなさそうな綺麗な校舎。
整列して腕や脚をピンと伸ばしてゆったりとした踊りを見せる生徒たち。
彼女たちは良い環境で素晴らしい教育を受けているように思えるが、なかには厳格なカトリックのおしえを説くシスターの重圧を感じている生徒もいるのだ。
シスターの葛藤の描写もあるが、この作品で最も強調されるのが生徒たちが覚える恐怖である。
シスターは自らの信仰心をどれほど貫くのか。彼女の人間らしさが垣間見えるシーンもある。それでもシスターの存在が生徒たちを脅かすことには変わりない。


閉鎖的なこの学校においても、数少ない外部の人たちとの関わりから、生徒たちの置かれた環境の危うさが垣間見える。
男性との接触を禁じることを揶揄するように門の網目から声をかけてくる少女たちや同年代の少年たち、また、信仰がなく男性との接触を避けることに疑問を感じると過激な言葉で訴える、娘を退学させることを決めた父親など…。
こういった異なる価値観の人たちと接する機会もなかなかない生徒たちは、学校のおしえおよびシスターの考えに従わざるをえなくなるのだ。

そして、この作品においてもう一つ中心にあるテーマがある。それは、与えること。
与えることとは、キリスト教の信仰における根本的な行為の一つである。
アレクサンドラはルームメイトのザビーネからチカチカ光る人形をもらう。アレクサンドラには何もあげるものはないけれど、その代わりに死ぬまで友達でいることはできると言う。
信心深いマルタの髪飾りは、さまざまな人の元の手に渡っていく。
そして、マルタら自らの心身を神様とシスターに捧げるのだ。
見返りを求めずに「与える」ことはたしかに素晴らしいことであるはずだが、そこには犠牲を伴う場合がある。その犠牲はときに自分自身を傷つけえるのだ。

サイコスリラーとしての側面が強く押し出されるなかで、生徒たちの恐怖心ばかりが表に現れていて、彼女たちの心境がそこまでうかがえなかったのが残念だった。
信仰心というテーマも、「与える」ことを中心に描き分けがされていたことと、アニメーションの挿入で聖書のおしえが示されてはいたが、もっと掘り下げて一つの明確なテーマを貫いてほしいと思ってしまった。
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