KengoTerazono

ウィッシュのKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

ウィッシュ(2023年製作の映画)
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100年という節目でこれは正直がっかり感はある。
確かにプリンスがおらず恋愛要素を打ち出していないぶん、今回のヒロインは力強い。彼女の親友はもしかしたらレズビアンかもしれないというのも、新しい試みだ。だが、それらを打ち消して余りあるほどに、ひどい部分が目立つ。
 
多様性をかなり打ち出しているが、アメリカ的なポピュリズム物語に雑多な人種を収斂させているようで、印象はよくない。
ザ白人男性に対抗する様々な人種の人たち、そして女性という安直な二項対立とフェミニズムも、やはり物足りない。

アーシャは自分が正しいと信じて疑わなが、それは王のマグニフィコも同じなわけで、アーシャはマグニフィコの鏡にすぎないし、もしかしたら第2のマグニフィコになるやもしれぬ。

deserve という単語がよく聞こえたが、何を持って「値する」のか。ある価値観に基づいているはずの善性や悪性を信じて疑わないその価値観自体が怖い。

映画が終われば物語世界内の登場人物は「最初は悪夢の王国だったね」とみな口を揃えて言う。でも、あの王国を、夢の王国かのように彼らは慕っていた。そこに無批判的である以上、私はこの物語を支持しない。

ディズニーはこれまでポリティカル・コレクトネスに邁進してきたが、彼らは所詮時流に乗っかっていただけだということが、白日のもとに晒された。ただ、プリンセスを黒人にすればいいわけではない。ディズニーがポリコレに向き合うということは本来、決して彼らにとっては楽な作業ではないはずなのだ。過去の白人・家父長的なプリンセス像を反省しなければいけないから。その反省なきままに、「これが流行りだ」と言わんばかりにいままでポリコレを打ち出してきた。だが、彼らは自分の頭では考えていなかった。だから簡単に彼の望みは「値する(deserve)」、彼の望みは「値しない(not deserve )」といえてしまう。苦しい作業をすっ飛ばして、ポリコレの気持ちよさに浸ろうとしたから、こんなことを言えるのだ。「あの時はこれが当たり前だった」ことに対して向き合わないから、同じことを繰り返す。ディズニーが本当の意味で変わらないということは、アーシャも簡単にマグニフィコになれてしまうということだ。

安直すぎて、本当にがっかりだ。願いも、魔法も、悪役すらも、効率的に消費され、彼らの全能感の糧にされている気がしてならない。

ただ、トゥーンシェイヴ(日本的に言うならセルルック)のCGIと、いくつかのセルフパスティシュは評価する。特に冒頭の絵本の絵柄から地続きに物語世界へとクローズアップしていくシークェンスは、絵本がそのまま動いているかのようで楽しかった。
スターが森の木々やきのこ、動物たちをしゃべらせて皆で歌うシークェンスも、まさに『シリー・シンフォニー』シリーズという感じで感動した。

マグニフィコも言っていた。「ポピンズはやってこない」と。この映画をみて、そうなのだなと悲しくなった。
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