ニューランド

大いなる運動のニューランドのレビュー・感想・評価

大いなる運動(2021年製作の映画)
3.6
 ✔『大いなる運動』(3.6p)及び『イリアック·パッション』(4.1p)▶️▶️

今年のIFFのテーマは『アンダーグラウンドの再想像』とある。再想像とは、妙に虚ろな概念だ。パンフの序文を見るともう富山さんの物ではなくなってたし、コンペの審査員にも知った名前は見当たらない。アンダーグラウンドを縮めてアングラなる言葉を日本に定着させ、メカスのアーカイブに倣って活動を起こした佐藤重臣さんの遺産?を乗っ取った形の川中伸啓が始めたIFも、近年は大体エキスペリメンタルなる言葉を使って、アンダーの形にならない迫力·ドス黒さ·過激は、目を引く表面的目新しさに取って代わられたようだ。
 『~運動』。本作は、自然に巧妙に壮大に、今風に前衛の存在·健在を納得させる。個人的には、21時半から1時間半は仮眠とする事が多いライフスタイルなので、極力レイトショーは観ない中での無理な鑑賞。案の定、中核部分(抽象内面世界は闇っぽい記憶しかなく、その後の役者の呆然表情の方しか)はウトウト。しかし、それでも納得させる、伝わりの普遍性か、離れた異次元世界の溶け込みが来る。
 ボリビアの高山都市ラパスに、職探しに辿り来て、仕事奪われた鉱夫らのデモ行進の成員に吸い込まれ、抜け出ていかがわしくも息づく大都市に興奮し·その巧みなリンクの端に引き込まれ、固定の誇りと無縁の、不可思議遠隔地と都市の行き来の巨大呼吸に嵌め込まれる、田舎出3人。1人が奇病に冒され、不思議なビジョンや人間性を喪失させる搾取のリズムに溶けむ中で、主体を失うと共に別の生として再生される。
 都市伝説的な怖さの枠組を通過するのに、人群や都市全景やそのミニチュア、望遠やLでの空撮やフォロー以上に、殆ど緩慢で果てないパン·横移動やズームのが必要性越えて対象も無化し、厳密手法だけが浮き上り支配してく感覚が覆う。日常の会話や交渉やり取り、内的幻惑を通過し、個性も無駄もない荷役や採掘の僻地派遣労働かり出されと都市戻り休養の繰り返し無機質映像組立に行き着き、捉えどころのない凄まじくも手応えすらすり抜けるモンタージュ自体の主張屹立複数回に届く。一般的関心を引く素材で引っ張りながら、純粋な映画技法の独立·復権も目指してるようで、そのインパクトは頼もしくも、狡猾を感じもする。
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 その巧妙さ、疎外で通じ合う舞台の巾と純粋技法を果たす、大胆そのものの21C風アングラに対し、ニューアメリカンシネマ全盛の1960年代序盤からの中盤にかけての一作『イリアック~』。ギリギリで前売りゲットだったが、私が知らないだけで著名な作品なのか。今の『~運動』に比べ、アプローチは如何にも切れ目が不慣れで、大向うを張るが軽めに浮き上がっている外観。これまで聞いた事のない作家の取り上げは、しかしより、作家の社会知名度に拠らない純度、本来性をそのうち、感じてくる。映画の特性を実現していると共に、これがその枠を更新してゆく、本物のアングラの美を受け取れる。直接的に社会とリンクしない分、話題性からは遠ざかり、一般に考える美とも遊離するが、自己の独善と神にも向き合える高みが実体化してゆく。
 また冷静に見ても、映画の概念でこれだけの傑作は稀だ。モンタージュの細かさすら越えた突刺し·完成度の高さは、端正な商業映画のエリアのO·ウェルズに匹敵し、堂々巡りから未来と現在を見据える視座の持ち上がりは、レネやマルケルに近いのかも知れない。たが、機材や技術のサポートの少ない、個人映画·実験映画でこれだけの高みは先ず考えられない。じっと見つめてると驚く。商業映画の慣用句に侵されたものが、拭われ別の真の紛い物のない宇宙と濁りない現実を感じてくる。
 編集ビュアーを送ってるようなごく短いFO、カット内·カット間を薄め透明化するOLやDIS、らも濫用がちな細かいというより勝手·強いモンタージュは、古風な石の門·柵、緑の葉々に囲われた途、岩場の威容と力、城内的趣きの部屋、建物(内)と外気の交感、黒いバックに先んじる大小焔、現代人だが時代を超越したようなファッションも感情表現もセンシティブな若い男の移ろう相の中心、白い髪や赤い悪魔的着ぐるみの高名知人アーチストの像の割り込み図、古風でエキセントリックな意匠の女らを、半ば気取り半ば自らを唾棄しつつ、操り、それらを踏んで更に自己の内なる中心誠実に向かい刺し続ける。長いショットはなく、軽いパンやズームが加わるくらいで、一色を極め深め突刺しくる。全体との連関より、自己の瞬間に前とイメージが被り重めになろうとも問い続ける。絵や装置の完全性よりも、ショットの捉え方自体が鋭さを失わない。強い黒と赤、シルエット暗め、淡いイメージ、自然の囲みの安定or激しさが、整えを取らず純粋を極めて叩き込んでく。テキスト朗読も、既存の神話なのか、周知有名なのの再構成、より韻文化を計ってるか知らないが、音楽の様に、身体·運命·感情·時間·真実に関す単語·句が思い付きの様に浮かび置かれ、重ねられてる気がする。英語を全く解さないので、センテンスに届いてるのか、そしてその内容も、わからないが力や向かうものは感覚的に伝わる。
 そして終盤に向かい、重苦しい予感、問い突きつめられる圧力の存在·威力は薄れ、現代性·日常·食器·強調されぬ女性性、の柔らかい抵抗を削いだウエイトが増してくる。気張らぬ先の柔らかみ、性も研ぎ澄まされものでなく·緊張を与えないナチュラルにふっくら柔らかく寄り添うもののウエイトが増してくる。それでも、対象や価値観におもねる事なく、常に直感と自己の中の正直と厳密に沿っている、は守られる強さ·儚さがある。ニューアメリカンシネマの中で主流の、自由·カジュアル·野放図·激烈さと明らかに違い、同時期の先に述べたウェルズやレヌらとリンクし、ジャンル的にはブラッケージ最高作の神話詩と通じてるかのかもしれない。この完璧さ·鋭利さ·誠実さは、おそらく映画を外れ、映画と足場がダブる何かの到達なのだろう。
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