YasujiOshiba

マルクスは待ってくれるのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

マルクスは待ってくれる(2021年製作の映画)
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イタリア版DVD。23-163。ベロッキオの映画はそのほとんどが告解だ。そうは思っていたけれど、神父とベロッキオの対話を聞きながら、あらためてそうだと確信した。

この映画もまた告解だ。告解は作品になりうる。この映画がその証明だ。それこそがベロッキオの才能なのだが、その才能が双子の兄弟カミッロを苦しめた鬱の原因のひとつだという皮肉。そして、その皮肉をも作品にしてしまう力。

そんなベロッキの力は物理的なものではない。精神的なものだ。イタリア語でいえば「morale」(モラーレ)。それは、人が生きるとき、その生き方の精神的な前提条件となるものだ。道徳とか倫理とかモラルと言われるものよりも、もっと習俗とか慣習に近く、人のやる気や意志のことを示す。それがラテン語の「mos, moris」であり、「morale 」の語源となるものだ。

そんなモラーレだが、ベロッキオがこの力によって取り組んできたのは、スクリーンの登場人物が抱え込む心の問題への接近だ。実のところそれがベロッキオの個人的な関心なのだが、そうであるからこそ具体性をもって描き出され、普遍的なリアルとして提示されることになる。

普遍的なリアル。そう、ひらたくいえば「それ、わかる」というリアル。この映画でいうならば、カミッロの自殺の原因となったであろう鬱状態を、ベロッキオをはじめ家族の誰もが気がつけなかったこと。それが家族ひとりひとりの口から、それぞれ少しずつ違う言葉で語られるとき、全体として織り上がるリアル。

このリアルを理解できるのは、ぼくもまた家族のかかえる内面の葛藤に気が付かず、わかったような口をきいてきたからだ。ぼくらはわかることしか、わかろうとしない。わからないことは、わかろうとしない。ところが、そのわからないことが突然に開いた裂け目から姿を現すことがある。

だからベロッキオが描いてきた狂気は病気ではない。永遠の欠損でもなければ、回復不能な病でもない。それは、フランコ・バザッリャのいうように「人が危機にある状態」にすぎない。ただ、他人にはわからない。わかってもらえない。

けれど、もしも、「わからないけれど、わかろうとする」ことがあるなら、あるいは少なくとも「わからないものがある」と察し、心配し、寄り添うことがありうるなら、もしかするとカミッロのような人が自殺することはなかったかもしれない。

この「もしも」や「もしかすると」は、それもまた、ぼくらの誰もが事後的に陥る「危機」だ。ぼくらはこの危機を生きる。事後的に鬱状態に沈められた者と同じ状態を生き延びるように仕向けられている。

それが、ぼくらが物語を作ったり、その物語を生きようとする所以なのだろう。人間存在はたんなるフィジカルなものではなく、モラーレなものである。芸術はその証にほかならない。

追記:
マルコ・ベロッキオのモラーレについて考えた。自殺した弟のカミッロは、おそらく「そのままでは生きるのが困難」な状態で生きていたのだ。しかし、誰もわかってやることができなかった。そして誰もが、わかったようにふるまってきた。

「そのままでは生きるのが困難」な状態はサバルタンと呼べるのかもしれない。地方都市の家族がまるで牢獄で、他の優秀な兄弟たちに引け目を感じながら、なんとか仕事をみつけ、恋人もいたのに、結局は生きることを捨てたカミッロ。

はたからは理解されることがなかった。誰もがその突然の訃報を交通事故かなにかだと思ってしまう。彼のような状態もまた、きっとサバルタンとよんだよいはずだ。サバルタンはイタリア語で subalterno 。グラムシは「従属階級」という意味で使ったが、「sub-(下に)alterno (交代させる)」というこの言葉が示すのは、歴史的なものであり、一時的であるがゆえに、いつかはさらに「交代する」かもしれないということ。

ヒトもモノも時間の流れのなかで移ろいゆく存在。歴史が変化だとすれば、その変化にこそ救いがある。だとすれば、その変化を語る芸術は、救いへと開かれていることに価値があるのかもしれない。

ベロッキオにはそれがある。そう思う。
YasujiOshiba

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