ニューランド

すべては大丈夫のニューランドのレビュー・感想・評価

すべては大丈夫(2022年製作の映画)
4.3
 ここ何作かのパニュ作品は、過去の自他作家作モンタージュ、自らはアニメ的に動けない人形群配置、玩具的簡素抽象セット、で出来上がってるが、アニメーション技術も俳優演技も要らずに、素人が抱える主題に真正面から、出来合の物だけで向き合い·考え通す事で、ハリウッドSFX大作も及ばないインパクト·動かされるものが出来るんだと、痛感させる。勿論、パニュ作品はその上があるが。このレベルの作家というと、30年近く前に観た『ゴダールによるゴダール(JLG/自画像)』を始めとするゴダールの業績くらいしか思いつかない。箱庭映画という外見が、実は演劇等と比べ描ける対象が限定されて不自由な映画一般の限界を安々乗り越える。20年は経っていないが、初めて接した頃のパニュは、歴史を背負い·場として残った所に、反復や演技·形の抽象化といった、演劇の粋のアプローチで乗り込み、料理如く捌いていたが、今やそれすらまだるっこしい、映画や演劇の手続き·バジェットに費すものはないと、自らの手にあるもので、組立て·構想·行動·訴えを行ってゆく。本作は本年の映画として、最近の自らの少年期を振り返るブームで、本年もスピルバーグがその線で賞レースを席巻しそうな路線の作らを、遥かに上回っていると思う(勿論トロントなどには行かないので該当作は観てない)。パニュ自身としても、代表作初期の『S21』や近作『エグジール』らに並ぶ作と思う。
 砂漠に構築された、真空管やトランジスタ·配線版から紐·コード·木材らで組まれた、大モニターやスマホ·立像らを組み入れた、プロバガンダや監視強制の為の家屋·構築物の集会場。人間というかその人形らを抑え込む、自らも支配側でなくて奴隷の一部と気付いてない、猪·象·猿らの部位無機物ら組込みの動物人形ら。そのぬるさに、そぐわぬ世界を動かす物の本質についての、理解も置いてかれるが、ものを視る姿勢を促し、育てるよう固めてゆく、凄まじい語り。モニター画面は映画画面にフルに乗っ取り、拙い人形に付け足しや破壊·破滅·消滅が
加わり、様々な境は消えて、外で唖然の観客の側の不感症多も少しずつ 他人事·無警戒の隙から熱して、本人知らず(観終わり遅れても)無為が有為へと突っ走らされてゆく。そうはならないこちらに残っても、諦め·冷ややかな傍観は勧めないし、またそれに怒りも敢えてしない。それを感じるうち、全てが崩壊へ向かう道順が見えてくると同時に、手をつけていない「森」の、原点か未来か幻も、手に引っ掛かってくる。
 著名な劇映画『メトロポリス』『ラ·ジュテ』『ロスト·ワールド』らや、フラハティ+ムルナウ的な映像の自然と人の一体的映像やゴダール自身の撮影風景像等の、引用拡げ切りひた押し。独裁者達や隊列·強制労働·爆撃破壊のニューズリールからの様式力飛び出し抽出。6面主体の分割スクリーンは色有無や像の形·具象と抽象を纏めて2種に纏めての、目の眩み·意識の深層を目覚めさす高速モンタージュ更に加速。それを囲み見て·感化行動する動物や人の映画内社会捉えの切り返し·羅列·パン+ズームの控えめから、少しずつ地道に横移動や同一対象へ角度変続きデクパージュの体温熱度加わり。ナレーションの激化は端からとして、既成動物や人間の決まりきったものから、独自ポーズへの発展展開·無機物と合体し生き物越え·変化し絡まり交わる、そして小品イメージを消してく驚くべき手間加わりと際限が消える多量大量増殖·映画としてもイメージは巨大を予感させてく。その箱庭の自由自在巨大化は、いつしか尽き果て砂埋もれ抹消化へ滑る。その間には実験材料とされる生物の手術分断·その斬りとられ·掘られた切口や欠落·生命奪いが、変らぬ固定画面の次カットへの飛躍で、あまりの無惨非道を現してく。その先に対置される古来よりの隠れてた森も見えくる。爆破·破壊力の高速·破壊増しが張り詰め線を際限なく拡げる核兵器の凄さは、同等に尽きぬ人の飽食の加速を停めぬ怪物感·空恐ろしい姿のモンタージュに裏打ちされる。2つのウエートと質は変わらない。
 「(革命)権力は、巧妙に複雑に姿を隠し、支配·暴力の力だけを、現し破壊へ向う。単純に時と場合を区分けしてゆく事は遮られ、全てが淡く入り混じり、ある一手に集約されてゆく。奴隷はその一部を移植され、あたかも自分が主人の様に、破壊し·破壊される事に喜びを得る。歴史や時間の感覚、過去と未来も消失してく。その際の手立てとしての実験は、産業となり、全ては消費され尽くす。汎ゆる生物·世界は食い尽くし、殺されてゆき、避けられない道へ。それに対し、そこでは(権力が意図的に)浮上がらせない死の世界への逃げ込み、イメージ、記録保存で、抗することも。しかし、イメージ·言葉も、監視され、曲げられ集約されてく。全てが滅びへ向かう中で、逃げる事が自由であり、ユーモア·友情がない世界から、他者·獣や人を解る、元の‘森’へ入る。最初から始める。可能か有効かは分からない」
 被支配·奴隷化は、威圧的な姿勢からではなく、この様な半端客観面白がり感覚からいつしか、嵌ってくものか。プーチンについても、ロシアの内にいるかなりの数の人が、その怪物性を最近迄わかってなかった筈だ。
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