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黄金の河のニューランドのレビュー・感想・評価

黄金の河(1998年製作の映画)
3.7
✔『黄金の河』(3.7p) 及び『待望されし者 あるいは月の山』(3.3p) 『虚栄あるいは異界』(3.4p)▶️▶️

 本来なら、一昨年にこの作家の最も興味深く素晴らしい作品としてアップしてた筈だが、他でも書いたがドコモで機器の点検中、悪いのは機器で勝手に画面が動いたのでと、何十本かの一本として店員に纏めて消されてしまった。何が消されたかも正確ではないが、少しずつ再現できたらと思う。
 やはり、再見して書ければと、予定外に会場へ向う。複雑高度なカメラワークと構図·光·色調、何組かの男女の年齢·立場·時代を越えた交錯と禁断、祝祭·因縁·神の領域、幻想と妄執の視覚と内面世界支配、確かに改めて、溝口·フェリーニ·ブニュエルの影響下、取分け『ゲーム~』『~馬車』のルノワールの捌きの亜流ともいえ、そのセンスは年を加え、更に堂に入った映画と地域性の世界の表し方の、模範と成っているを感じ、また、固有オリジナルな世界に近くは行くもやはりそれには成り切っていない土性骨の若干の不足を感じさせ、やはりモンテイロ·オリヴェイラにくらべると驚愕の度合いが少ないとなる。高望みだが。長編処女作から、センスが良すぎるのか。
 冒頭から、人の配置や自然·それへの人造構築物食い込み·陽光の厚さ、の絡みを捉える、複雑に長い息でフォロー往来し、同時に上下も加わっる、更に真上めに上がって、真俯瞰めに新たなカップルを間下の河に収めるカメラワークは、正に溝口クラスで、それは以降は少しだけ治まるが、中盤の移動の距離は控え目も微動前後しての舞踏の群れの古来民族の血のうねり拡がり留まらずの長廻し、終盤の魔力の漫画的も地の底からのあからさまでぶっとい合成力·空撮など移動力·それと現実車フィットとのモンタージュ·括り抜く夢幻水中トーンらの、新たな局面·世界拡大が続く。
 世界を廻って故郷の村に落ち着いた老人、色々問題有ったも彼との初婚で落ち着くかの名うてのフェロモンと悪の女神性衰えぬ中年女、彼女の曾ての恋人ら、取分けこの地を手に入れんと戻って来た腹黒い土地ブローカー、特別な能力を秘め様々なそれへの本能的忌避からピンチに陥る若い娘、彼女を受入れるには力不足の恋人の若い男、それらの関係が大胆に定番越えて錯綜し、夫が匿い·他の男らにも影響を及ぼす娘への、嫉妬·警戒から、悪の女神の本領を著し初め、人為·それを越えた力で世界を壊し始める中年女、の観る側からは画力の圧巻へ。生死が与えられるべきと、その先に及んでく。
 映画的·地域的·人間と地方の力の究め、力技と愉しい手応えを満喫する。米映画なら、アカデミー賞作品賞クラス。記号·象徴散りばめとその風格も堂に入ってる。
「河の女神、悪を沈め、心を澄ませてくれ。死んだ子は貴方のではない。金の鎖を沈め、悪の物を置いてくれ」「過去は話すな。復讐へ向かうのか」
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 『待望~』。この作家は、初期から常に、死や悪への引き込まれる必然を覚悟した感覚が付き纏っているが、特に華々しい評価を受け、新しいポルトガル映画の火付け役と称せられて後の、円熟·爛熟期はさほど評価はないようだが、そこでの慣習や旧い世界観に浸され·また自ら入り込む、腐敗が対立項目でなく、日常化した作品は、力·進展は衰えていない。なお表立たせない若くピュアなものへの手放せなさの存在が、いくら様式や風俗の重さを纏おうとも残ってるにしても。
 日本を舞台·題材にした時代を経て、未だ日本の名残りが残っての’80年代作。ポルトガルの政治の変り目が訪れた頃、国体のトップに登りつめんとする野心家や、それを制すかあやすかの様な黒幕重鎮らが、動きも個人の思惑だけに限られず、重々しく錯綜する重厚作。とにかく画面に黒が多く·暗さが強く囲みこみ(窓枠越しに限らず)、橙系の照明が重く、繰り返すが闇や枠によって·室内でも車内でも屋外や川辺であっても狭い圧迫感がし·広角めも無理がない、俯瞰めも多いが極端な構図は少なく正統真っ当感覚が続く。カメラ移動も多く長距離はなき、強引なものは少なく重厚感を損なわない。
 左翼を代表する政権目前主人公も、右の実力者で死の床に着いてる老人も、主義よりも実際の勢力の充足や存続に向かい、敵の部分を引き入れたり·妥協する事を厭わず、互いに肝胆相照らす部分も多い。女性関係も妻以外·世代を無視して、まめだが、相手の娘にも向うが、若い世代同士が偶々の仕事の同行でくっつき枠が清新に破られ、また、それは思わぬ死にも繋がってく。
 いかにも、静的で重々しく、表立った動きを制御した、日本文化を通過した作風か。
 その分、その10数年後『虚栄~』は、この頃既にデジタル(ビデオ)素材が中心か交えての製作になってなのか判らないが、エッジに電気的な太め加工があったり、退いた絵だと細かい輪郭がチリチリした所がある。要は、柱としてシーケンスとしと放り込まれる、ファッションショーといい、ポルトの守護神祭=聖人祭あたりでも、祝祭·その歪み且つ開かれたエネルギーという、ポルトガル固有色が強めに出て·かつフェリーニ色ある時期作なのか、カメラワークや構図も自由に大胆に開かれ華やいでってる、色彩や光感もフリーだ、かつ特有地方色と現代的個人エゴイスティック動きが濃くつまり、魅力になってる。
 高名なファッションデザイナーが中心で、身近な恋人ら関係や、故郷からの繋がりの人間らが絡んでくる。より、堂に入った造りと筆致になって、筆さばきが自信に満ち、味わい深い。やはり、生と死、地方と都市、人工性と古来からの血が、高めあってく。この作家が、本国や作家本人も、初期に限った高評価が、周りの空氣の変移が分からない分、ちょっと納得できない。私の何倍も東京の汎ゆる上映映画を観てる知人が、会場から会場に1日に何回も走りまわっるので、5分も話しが出来ないのに、この作家の、私は未見の他の作品についても何回も観たい位、素晴らしいと絶賛してた。
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