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ウルトラマンギンガのccのレビュー・感想・評価

ウルトラマンギンガ(2013年製作のドラマ)
3.0
中学生の頃、途中で見てられなくなってリタイアして以来。そろそろ大丈夫だろうと思っての久しぶりの視聴だったが、やはりしんどい部分は多い。しかし、この『ギンガ』やこれを放送していた『(新)列伝』(以下、『列伝』で統一)がウルトラシリーズに占めた位置というものは評価されるべきだし、その意味で『ウルトラQ』と同等に重要なのではと言っても過言ではないと思う。そう思うようになった。『列伝』とウルトラマンギンガの奮闘なくして、名作『Z』や『ブレーザー』は生まれなかったのである。

特筆すべきは怪獣やウルトラマンの扱われ方である。本作の特徴と言えばやはり、ウルトラマンタロウを除いた彼らがスパークドールズという意思のない人形になってしまっており、変身アイテムと人形さえあれば容易に彼らに変身できることにあるだろう。中学生の私は、ぽっと出のキャラクター達が簡単にセブンやティガに変身してしまうのが我慢ならなかったし、どこか「尊厳」を失った怪獣やウルトラマンに不満を抱いていた。しかし今から考えれば、中学生になってもまだ特撮を「卒業」していなかった私の方が視聴者としては特異な存在で、本作はより幼い者に向けられていたと思えば納得がいく。というのも、おそらく『列伝』を見ていた子供たちは「ウルトラマン」というものに親しみがない世代だったのではと思うわけである。私は『コスモス』がドンピシャの世代で、レンタルビデオでTDG3部作に触れ、『マックス』や『メビウス』で昭和の怪獣たちにも出逢うことができた言わば目の肥えた世代であった。それが故に『ギンガ』に我慢ならなかったのだろうが、『列伝』がドンピシャ世代の子供たちはせいぜい『大怪獣バトル』を見られたかどうかが関の山であり、毎年放送のあった仮面ライダーシリーズに比べれば当然、ウルトラマンは馴染みがなかっただろう。まずは子どもたちに、ウルトラマンや怪獣について知ってもらう必要があったわけである。そう考えればスパークドールズなどは、初出の文脈やテーマ、物語などを二の次にしてひとまず彼らに触れるためには絶好のものだったように思う。キャッチコピーであった「君が、ヒーローだ!」もまた、スパークドールズを模したという体のソフビフィギュアと変身アイテムのおもちゃを購入してもらえば、彼らに「なれる」のだという親しみやすさが一面では込められていたのだろう。作中で死者が殆ど出ない(おそらくラスボスのルギエルくらい)ことなども、スパークドールズという設定が功を奏した点と言っていいと思う。倒されても、変身が解け人形へ戻るだけ…ヒーローものでありながら命のやり取りがないという手軽さも、全て子どもたちに向けられたものだったのだろう。

主人公である礼堂ヒカル達が防衛軍などの所属ではなく一介の学生だった意味も、親しみやすさや手軽さ重視だったのではという考察とそう離れていないように思う。『ギンガ』のテーマは「未来」で、本編に度々登場する「夢」と合わせこれもまた子どもたちに馴染みの深いものを設定している。ルギエルによって希望を奪われた人間たちは、ときにリアリストに、ときにニヒリストになり、未来や夢を語ることをやめてしまう。これをヒカルが真っ直ぐに否定し、絶えず未来を志向する様などは今見てみればカッコいい。それでいて学生であるために説教臭さなどもなく、等身大の物語が進んでいく。ヒカルたちの演技は正直苦しい。それはどうしようもない。しかし、津川雅彦や虎牙光揮といった大人の俳優たちの演技を見ると、どこか調子を落としたというか、わかりやすい演技をしているように見える。これもまた難しく見せないための工夫だったのだろうか。だからといって、女性の着替えの現場に遭遇したウルトラマンタロウが赤面するなどといった下品な演出はしなくてもよかったと思うが。

「キラメク未来」はfeat. ウルトラマンゼロ、feat. ウルトラマンギンガの2つのバージョンがある曲だが、思えばこれらに続いた『X』も含めて、『列伝』のウルトラマンは常に未来を語っていた。もちろん言葉通り、子どもたち(や「卒業」し損ねた私達)の未来をエンパワーメントしてくれる面が大きかった。『ギンガ』を途中で見るのをやめた私でも、受験期には「キラメク未来 feat.ギンガ」の「未来は変えることができる」という言葉に常に励まされていた(今回見てみて初めて、これが最終話のセリフだったと知り目頭が熱くなった)。と同時に、いやそれ以上に、彼らはウルトラマンシリーズの未来もまた背負っていたのだろうと思う。N Projectの失敗に始まる不振、低迷脱却のための円谷プロの身売り、それでなお巻き返しの叶わない中でも、ウルトラマンを未来に繋ごうとした『列伝』と、新たなウルトラマン視聴層を生み出そうとした『ギンガ』のたゆまぬ努力を評価せずにはいられないのである。結果、『メビウス』までの間、毎年放送があった期間が最長で4年しかなかった(『帰ってきた』〜『レオ』)ウルトラマンシリーズが10年以上連続で放送されているという現状がある。『ギンガ』は巧拙で言えば、単純な見栄えやドラマとしての出来としては「拙」だろう。戦闘シーンなども、どうしてもスタジオ撮影感が拭えない上、合成がうまくいっていないのかウルトラマンを見上げる美鈴達の目線が全然あっていなかったりもしている。しかし、テーマとして、ウルトラマンシリーズとして「未来」を志向した作品という点では間違いなく「巧」であった。結果論かもしれないがそう言いたい。『ギンガ』以降も所謂レジェンド商法は続き、私は大学生になるまでウルトラマンから離れていた。しかしレジェンド商法とは、ウルトラマンや怪獣という存在を新しい世代(まさしく「ニュージェネ」である!)へ根付かせるためのものだったのだと思う。この時期に完全新作を出していたら、今度こそウルトラマンシリーズはとどめを刺されていたかもしれない。「ニュージェネ」の軌跡や、『SSSS.GRIDMAN/DYNAZENON』や『シン・ウルトラマン』の成功があってようやく叶ったのが完全新作の『ブレーザー』だったと言えよう。切通理作氏がこのタイミングで『ニュージェネの証』を発表したのも、『ブレーザー』の成功のために『ギンガ』たちを労っているような印象を抱かずにはいられないのである。私も一度背を向けてしまった分余計に、ウルトラマンギンガと礼堂ヒカルを労いたいと思う。ありがとう。
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