三樹夫

あしたのジョー2の三樹夫のレビュー・感想・評価

あしたのジョー2(1980年製作のアニメ)
4.4
矢吹丈がドヤ街に帰って来てからホセ・メンドーサ戦までのアニメ化。カーロス・リベラ、金竜飛、ハリマオ、そしてホセ・メンドーサと戦うが、他にもタイガー尾崎やレオン・スマイリーなるキャラとも戦っている。
原作が最終回を迎え数年が経ち、最初のアニメが終わってからも数年が経って、80年にこのアニメは制作されたが色々な要素がぶつかり合い傑作となっている。そもそも原作の時点で梶原一騎要素とちばてつや要素がぶつかり合っている。梶原メソッドのよくあるパターンがつぎ込まれているというか、梶原原作は別作品でもよく同じことを繰り返しているのだが、大きな要素として魔球の投げ合いと足し算的演出、やたらギラついた下層階級キャラの階級闘争というのがある。魔球の投げ合いは『巨人の星』が分かりやすいが、大リーグボール1号が破れたときたら次は2号というように魔球の投げ合いになる。『あしたのジョー』ではウルフ金串戦が分かりやすいが、クロスカウンターが破られダブルクロスからのトリプルクロスと魔球の投げ合いになっている。そして魔球の投げ合いで出てくるのが梶原計算式で、はっきり言ってよく分からんがその魔球が存在し得る理屈とどれぐらい凄いものかという数値化が行われる。「クロスカウンターで4倍、ダブルで8倍、トリプルクロスでは12倍」と丹下段平が謎の計算式を解説していた。ていうかトリプルクロスでは16倍じゃないのね。この魔球の投げ合いは『空手バカ一代』でさえも見られ、三角飛びや三段蹴りという形で提示されている。また矢吹丈と白木葉子のような関係性は、後に『愛と誠』でも繰り返される。
足し算的演出は『巨人の星』で言えば大リーグ養成ギブス、『あしたのジョー』で言えば地獄の減量が分かりやすい。とにかくケレン味にあふれた展開をぶち込み観る者の度肝を抜き釘付けにしてくる。
下層階級キャラの階級闘争は力石戦やホセ・メンドーサ戦が分かりやすいが、下層階級に属するギラギラした主人公がブルジョアの側に属するライバルと戦うというものだ。矢吹丈はドヤ街を背負う下層階級の主人公だ。カーロス・リベラ、金竜飛、ハリマオも下層階級出身のキャラである。下層階級出身のキャラが多いのは、おそらくボクシングはハングリー精神豊富な人間が行うものという認識があるのだと思う。しかし階級闘争を受けるブルジョワはどうかというと、劇中生まれも育ちもブルジョアなのは白木葉子しかおらず、力石は白木葉子側で戦うものの出自は下層階級だし、ホセ・メンドーサも今でこそ成功したマイホームパパだがどう考えても生まれながらのブルジョアというより、ボクシングでの成功者として上の階層に上がったというように思える。ただホセ・メンドーサは劇中の描写としては上流階級描写しかないのは、下層階級の矢吹丈と上流階級のホセ・メンドーサという分かりやすい階級闘争的構図で見せたかったように思われる。ちなみに梶原一騎はマイホーム主義みたいな人間を心底気に食わねぇとボロクソに叩いており、ホセ・メンドーサがマイホームパパなのは憎きブルジョワというキャラ描写だろう。
しかしちばてつやの庶民的な作家性がそこに挑んできて、浮かび上がってくるのが紀ちゃんだ。紀ちゃんは白木葉子と対になっており、白木葉子はブルジョアの梶原一騎的なキャラだが、紀ちゃんは乾物屋の看板娘的な庶民的なキャラクターでちばてつや的なキャラとなっている。
原作の時点で梶原一騎とちばてつやの作家性がぶつかり合っているのに、アニメとなりさらにそこへ出﨑統の作家性もぶつかり合うことになっている。1のアニメの時はいかにも昔のアニメっぽい荒い太い線で、『あしたのジョー』世界に違和感なくフィットしていたが、『あしたのジョー2』になると線も細くなり、出崎演出の代名詞となる透過光や入射光、ハーモニー、スプリットスクリーンや3回パンなどがこれでもかとぶち込まれ、もはや謎の何かになっており、これほどまでに作家性がぶつかり合っているのに破綻していないのが不思議なぐらいとなっている。
さらに80年制作という時代もこのアニメには加わってくる。80年代的な軽薄短小さや一億総中流という雰囲気が既に入り込んでおり、はっきり言ってドヤ街がどうだのこうだのというのは80年という雰囲気からは浮いている。勿論一億総中流というのは幻想で、ドヤ街的なのは80年代的雰囲気の中で無かったものにされていただけだが、それに対するカウンターが青山正明などの悪趣味文化だったりするが(悪趣味文化は後にエグいものを見れればそれでいいんやみたいなポルノ的に消費されるようになる)、とにかく『あしたのジョー』のもつ60年代70年代的な雰囲気は80年という時代においては時代遅れになっている。しかしここにぶつかってくるのが真っ白な灰だ。誰もかれもが80年代的な享楽に溺れている中、「そこいらの連中みたいにブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない」「ほんの瞬間にせよまぶしいほど真っ赤に燃え上がるんだ」「そしてあとには真っ白な灰だけが残る」「燃えかすなんか残りやしない…真っ白な灰だけだ」の真っ白な灰理論が対比として燦然と輝く。80年という時代にこの台詞が来ることでより真っ白な灰が強調され心に響くものになっている。

梶原一騎のワードセンスや語感の良さがあって、両手ぶらり戦法とかこんにゃく戦法とかいちいちカッコいい。「好きなのよ矢吹くん、あなたが」の倒置法も良い。倒置法になってることにより切羽詰まって出た本心の台詞というのが伝わるし、何より印象に残る。『空手バカ一代』でも空手ダンスとか喧嘩十段とかワードセンスの塊だわ。
力石を殺してしまったトラウマでテンプルが打てなくなったが、そのおかげで殺人ボディを打てるようになるのとかこの流れほんとたまらん。打たれ強いのが取り柄だけど、パンチドランカーになるのとか、万事全てが最終回の真っ白な灰に向けて収束していく感がある。
『あしたのジョー2』は矢吹丈が最初の矢吹丈へ戻るための戦いのように思える。テンプル打てなくなったりとか、野生のハングリーさを失ったりとかして、そこから1の時の矢吹丈へ戻るような戦いをしている。野生のハングリーさを失っているから野生そのもののハマリオをぶつけるのはよく分からないけど。あれはボクシングなのか。
そして『あしたのジョー2』に漂っているのは死の匂いだ。ずっと死の匂いが漂っており、矢吹丈も達観したような雰囲気になっている。時折おどけてみせたりするが、どこか無理をしている感がある。

矢吹丈はボクシングしかできない男だ。紀ちゃんの店で手伝いをやった時には何の役にも立たなかった。しかしボクシングしかできないのに、ボクシングによって全てを失っていく。このボクシングによって失うのはアニメの1でもそういう台詞があった。矢吹丈はボクシングしかない孤独な男だが、ボクシングを通じてやっとできた友の力石をボクシングによって死に追いやってしまう。またカーロス・リベラもパンチドランカーとなり、最終的には廃人となる。矢吹丈もまたボクシングによりパンチドランカーとなる。ボクシングしかないのにボクシングにより失うという梶原的な破滅の美学がここにある。
矢吹丈ははっきり言って何考えているかよく分からないキャラだ。ただ彼は言葉にしないが不意に寂しそうな表情を見せる。1のアニメ主題歌「サンドバッグに~♪」のやつの「だけどルルル~♪」の部分はそんな言葉にできない矢吹丈の心情をよく表している。

個人的に一番好きな話はウルフ金串が金を返しに来る話だ。ゴロマキ権藤が気を遣って姿を消すのとか、帰り道ですごく嬉しそうなウルフ金串などこの回良かったな~。

このアニメは芸能人声優作品の昭和を代表する作品といえるだろう。1と2と劇場版で声優が変わるがあおい輝彦と藤岡重慶は固定だったが、そりゃそうだろうというか凄くハマってるし。あおい輝彦、藤岡重慶だけでなく、マンモス西も本業は声優じゃないし、白木葉子と紀ちゃんは一般公募だしでバラエティ豊かな声優陣になっている。そしてカーロス・リベラが中尾隆聖ボイスに、金竜飛が若本ボイスとか俺のためのキャスティングかってぐらい最高だぜ。白木葉子側に鈴置洋孝がいたり丹下ジムに千葉繁がいたりこれが豪華声優陣だみたいな布陣。堀勝之祐ボイスのトップ屋は、スポーツライターもやっていた梶原一騎をイメージしたキャラなのかな。
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