aiko、aiko、aikooooo!aiko、椎名林檎、スピッツ、そして名探偵コナン、まじっく快人、いまの文化の大動脈は90年代半ばから脈々と流れていっているのだと思う
この劇場アニメが、例えば>>続きを読む
佐藤真が「記憶」の作家だとするならば、やはり『阿賀に生きる』すらも、その当時の「今」よりも「かつて」の記憶を、フィルムの中に立ち上がらせている
乱暴に「昭和の記憶」が映っている、というより、盛えてい>>続きを読む
『阿賀の記憶』は「『阿賀に生きる』の記憶」であるように、『SELF AND OTHERS』は「牛腸茂雄の記憶」『エドワード・サイード』は「エドワード・サイードの記憶」というところから佐藤真を想う
過去作ほど前のめりさがなかったがために、反対に、ドキュメンタリーであるのに、まるであらかじめ緻密に設計された劇映画のようなショット、音でつながれてゆく
魔法みたいに迫ってくる瞬間はなかったものの、し>>続きを読む
バチバチバチくそにおもしろい!犯罪劇におけるありと凡ゆる要素が詰め込まれており、そしてそれが縦横無尽に駆け巡るため、活劇として完璧すぎて声出ちゃった これの邦題が『白熱』ってマジかよ、それは俺の感想の>>続きを読む
センスはすげーがおもろくない 多分「長浜」みたくもっと身体を見つめるべきだったんだろうな なぜか暴力を期待してしまっていた
スクリーンを見つめる俺、うめちゃん、ムービーの中で笑ううめちゃん、見つめる俺 にゃんこスターアンゴラ村長の伝説のコンビ「御飯をよそう妻、見つめる俺」ではなく、俺の中にもいないはずのうめちゃんを、うめち>>続きを読む
ドライヤーを観た時のように、かつて映画が一度完成したことを考える
普段は物語をあまり考えすぎないようにしているのだけど、ドイツ、この警笛のあとにナチスなどが出てくる世界に生きる我々、芸術にできることは>>続きを読む
『春原さんのうた』以降感じたある種のアピチャッポン的な独特の時間の流れはなく、対して純粋に劇映画として面白かったので面食らう
杉田協士、これも良いなというところと、褒めてない「卑怯だろ!」と感じるとこ>>続きを読む
ファーストカットでこれ映画になるのか?と思った次の2番目のカットでもう完全に映画だった 終わってほしくなかった
おいおいおいらおかわさびじゃないよ?と思うシーン 緊張と緩和 中盤観客大爆笑 サッシャギトリかってくらい笑ってた、ラストの質感と性格の悪さは「ライク・サムワン・イン・ラブ」を想起するなど
1936年、は?
安全圏から眺めていた観客が、ラストであまりにも唐突にあらわになってしまったものに自分事のように相対させられてしまう
ヴィタリナラスト付近でで明るくなったあと終わりこれがかかり 静寂から浴びせられる歌にサウナのあとの水風呂みたいにバカ整ってしまった 他の映画の組み合わせでもっかいやってみたい どちゃくそ気持ちいい
己の無力さを痛感する わっ、わっかんねぇ〜!ショットって何!?ショットって、何だ〜〜〜!!!?
3本とも、労働、働くことによって貫かれていて、そこにはどうしようもなく外国、日本・アメリカが纏わっている まだ無垢な目が等しく僕らに投げられる 侯孝賢以外にも良いショットがあった
「バイオ燃料ってのはどういうものなの?」「エタノールが得られればいいんで、ビールで代用できます」の藤子不二雄み
3本目のみ 喪失からスタートしているエリセ まなざし 映像を撮るということに対して非常に自覚的
ドキュメンタリーの被写体が運転している車が曲がるカーブが、カメラのパンのように素晴らしいショットになっている偶然(流石に偶然と思いたい)は、流れ集めた写真が妻のアルバムであるという偶然に作為的でなくリ>>続きを読む
演出をする/演出をしない ということ ふいにどうしようもなく撮れてしまっているものがあって「阿賀」というものすらどうでもよくなり映っているものがすべてになる
「彫刻を作るよ!」ってとこでウトウトしはじめて気づいたら彫刻完成しててワロタ
夜に生きるもの とりあえず見とくかぁ~の気持ちがただただめちゃくちゃ良くて食らってしまった