ドライブ・マイ・カーにおける岡田将生、そして今作における自然の中に生きる大美賀均と、東出という存在がちらついてしまう。
どこかで彼の存在を意識しながら制作しているのではないか。あるいは少なくとも彼の存>>続きを読む
ゴシック風の物語が一つの館ではじまる。セファラディム系のユダヤ教徒が、戦中に同宗者を助けたアナキストを招き入れる。自分の中国人との間にできた娘の眼差しを死ぬ前にもう一度観たいと言って。そして映画内映>>続きを読む
最後のシーンでジュリー・デルピーを見るイーサン・ホークになりたい。彼らの時間は続く、最高に祝福されたエンディング。
NOTEBOOK ON CITIES AND CLOTHES
音楽→Laurent Petigant
クレール・ドゥニの名前がエンドクレジットにある
男性の孤独の問題は映画の題材になりうるのか。物語の中でしか居場所のないそれは、しかし現在ではあっさりとただの独りよがりで片付けられてしまうだろう。そこ>>続きを読む
家族が殺された家に通う
家族を殺したイスラエル兵を絵に描く
イスラエル兵と同じように顔を黒く塗る
家族の血がついた石を集め、家族を殺した薬莢を集める
子どもが信じられない事が起きた時に繰り返しそれを表>>続きを読む
Hotel des Bainsは南東部リド島に位置しており、いわゆる水の都、ゴンドラ、旧市街というベニスが登場するのは物語の折り返し以降、しかも非常に限定的な形である。むしろ海辺のリゾート地としてのベ>>続きを読む
震災の時間に向けて進んでいく構造は、『あまちゃん』を見ていてその瞬間を恐れながら待つのとどこか似ていたが、映画は戦争という虚構の導入がそれに代わるようにして3月になる前に2年度の世界にジャンプする。>>続きを読む
久々に大きな映画館で音も字幕も大きくて予算も大きい映画。そりゃあこれを喜んで観に行く人とはズレていくのも当たり前か。これはこういうものとして楽しめばいい、的なスイッチも入らなかった。むしろつまらないも>>続きを読む
猫を擬人的に描く。夫婦の子どもとして、不倫相手とのセックスを呆れながら眺め、あるいは窓からふらりと出て行っては河原で雌猫とデートする。しかし猫が擬人的なのは猫の行動を見ることができる観客にとってであり>>続きを読む
書道家がさっと一振り書いたような、いよいよ多作になってきたオゾンだからなのか、ポワンの打ち方が、仕事人のそれになっている。
ニュアンスを加えるのは、召使のように隷従するカールであり、最後に急に水平的な>>続きを読む
気怠く、退廃的な雰囲気に満ちている。二人にとっての絶頂期とやらは、気持ちの悪い笑顔と息が詰まるような暖色と寒色と、物に覆われて人間の間に距離のない気持ち悪さ。
最初から別にお互いのことを好きなようには>>続きを読む
現代の怪物は子どもの界隈の神話として残り、しかし本当に怪物的な異形さを見せているのは子どもの側からみた世界なのだという。しかし心のどこかで脚本の推進力、納得感に不満が残る。
あと相変わらず子どもを撮る>>続きを読む
後半にかけてこだわった変な絵が減っていく感じ
なんか嫌な予感はもちろんわかるし、若者の変に過敏な(そして驚くほど鈍い)感覚がゆえなのだが、それはさらにハリボテ感を増している東京という街のせいでもあるし>>続きを読む
有村架純も考えてみれば空っぽ感がある俳優で、それがとてもよかった。ちひろさんの埋葬は、最初はアンティゴネーのように一般的な常識に則れば危険なことを人間としてのしきたりに従えばそうせざるを得ない、という>>続きを読む
ある界隈の文化を一番よく描くとともにそこに少しずつ新しい糸を加えながら織っていく
うわーなんかきついなーと思って見始めて、いやでも意外と面白いかも、となっていく
第二次大戦を描こうとしたら、絶対こうはできないはず。人間的な兵士と無能な軍の指導者の対比
ユダヤジョークと移民のモノローグが順々に繰り返されれる。ポーランド語の訛りが感じられない俳優の流暢な語りは、監督がドキュメンタリーではなく演劇的なものを目指していることを示している。しかし二つの層の映>>続きを読む