せーじ

ラーゲリより愛を込めてのせーじのレビュー・感想・評価

ラーゲリより愛を込めて(2022年製作の映画)
2.5
339本目。
原作を読みたい、読んでから映画を観たい、映画をしっかりと観てから感想を書きたいと思っていたこの作品を、ようやく観ることができました。130分以上というなかなかのボリュームがある本作。でも、本作の作り手の座組は個人的には苦手な部類に入る人達であるということもあり、なかなか気が進まなかったのですよね。。。すいません。
ということで、意を決してDVDをレンタルして鑑賞。




…うーん…どうなんだろうなこれ。
やっぱり思った通りでした、悪い意味で。
構成も映像作りも、作り手がやろうとした「狙い」も、個人的には上手くないなと思ってしまいました。原作が伝えようとしていたことを何も伝えていないように感じます。

(以下、本作を観て落涙されたという方々にとっては不愉快な文章が続くことになりますがご了承ください)

■原作が伝えたかったこと
本作を観る前に、原作である『収容所から来た手紙』を読んだのですけど、正直胸が潰れました。何故ならそこにあったのは「山本幡男という人物の深すぎる絶望と、そういった絶望があったからこその希望」だったからでした。
もともと山本さんは、東京外国語学校(のちの東京外語大)でロシア語を学びながらも左翼運動に関わって退学処分にあい、それでも学ぶことをやめずに満鉄調査部に入り、ソ連の情報収集と分析にあたっていた人なんですよね。世界情勢にも詳しく、日本の軍国主義を厳しく批判していた人だったのです。日本軍に招集されてからもその実績を買われて、ハルビン特務機関に所属することになります。つまり、実務的にも精神的にもソ連とは非常に近しい立場に居た人だったのです。親ロシア派でしたし、なんなら抑留されていた当初は、ソ連軍関係者とも交渉出来る力があるのだから大丈夫だと思われていたのかもしれません。
しかし、皮肉にも山本さんはそういった立場に居たことで抑留後にスパイであるとソ連側に見做されてしまい、戦犯として強制労働の刑に処されることになってしまいます。さらに各地の収容所をたらい回しにされた挙げ句「前職者」(軍国主義関係者)というレッテルを貼られて、壮絶な吊し上げ(リンチですね)を食らったそうなのです。
これはとてつもない絶望です。
学生時代からずっと学び続け、親しんできたソ連という国の真の相貌を、そんな形で知ることになるなんて。日本にも見捨てられ、親しみを持っていたソ連にも冷酷な仕打ちに遭い、「白樺の肥やしになれ」と言われながら、それでもいつ終わるともしれない地獄のような日々を生きなければならないという現実が突きつけられていたわけですから。

だからこその「希望」なのですよね。

絶望の果ての果ての果てに突き落とされてしまったからこそ、山本さんは希望を見出すことが出来たのではないだろうかと自分は原作を読んでいて思いました。それは、彼がどんなに辛い目に遭ったとしても、これまで学び、親しんできた知識なり学問なり文化や教養の豊かさなりが彼自身の中に奪われずに残っていたのだと、実感できたからだと思うのです。「頭の中にあるものは奪われない」という言葉が示すように。
それが具体的な形として結実したのが、俳句でありアムール句会であり、あの「遺書」だったのではないだろうかと自分は思いました。人の知性や知恵、感性や教養といったものは、イデオロギーによる理不尽な暴力や裏切りを超えていくことができるものであるのだと原作では伝えようとしていたのだと思うのです。

本作では、そこが全く表現出来ていなかったというのが非常に残念でした。というより、それ以前の問題となる要素が多すぎて、観ながら頭を抱えてしまった次第です。

■本作が伝えようとしなかったこと
まず冒頭から違和感が拭えませんでした。原作では主人公は結婚式に出席していないのにしていたりということや、ハルビンの侵攻シーンのちゃっちさと嘘臭さがひどい…というのはまあいいとして、そのあと移送される列車内で主人公が「いとしのクレメンタイン」を口ずさんでいたのですけど…

おかしくないですかね?

何故、主人公が歌っていたのがロシア民謡とかではなく、アメリカ開拓時代に作られた歌だったのでしょう。
もちろん原作にはそんな描写はありません。この歌、日本では「雪山讃歌」の元になった歌であることで知られていますが、何故「雪山讃歌」ではなく英語の「いとしのクレメンタイン」だったのかも判然としていないのです。しかも「雪山讃歌」が生まれたのは戦前のことですが、「いとしのクレメンタイン」が世界的に広く知られるようになったのは、1956年公開の映画『荒野の決闘』からなんですよね。

あれ…?主人公はいつ知ったのでしょう??

まあまあ、その時点で主人公は「いとしのクレメンタイン」を知っていたのだとしましょう。でもそれだったら登山経験がある誰かに先に「雪山讃歌」を歌わせて、それに合わせて主人公が「いとしのクレメンタイン」を口ずさんでいて、疑問に思った周囲の人が理由を聞いて…とかってところまでやるべきだったと思うのです。導入の描きかたが雑ですよね。
しかし、それだけならまだしも、本作の作り手は「いとしのクレメンタイン」を作品全体のアンセムにしようとするのです。主人公と離ればなれになってしまった奥さんと子供たちにも歌わせますし、あろうことかのちの収容所内のシーンで俘虜たちに抗議として歌わせたりもするのです。

おかしいですよね??

おそらく作り手は、「いとしのクレメンタイン」を、『ビルマの竪琴』でいうところの「埴生の宿」みたいに扱いたかったのだろうと思いますが、やり方が下手くそな上に、歌の内容としてもその場面の状況に全く合っていないので、観ていてとてもモヤモヤとしてしまいました。だって、「いとしのクレメンタイン」って、亡くした恋人をいとおしむ歌ですよ?

繰り返しますが、もちろん原作にはそんな場面はありません。
まさか「♪Oh my darling〜」という歌詞だけでその歌に決めてしまった…訳では無いですよね?

しかも最悪なことに本作の作り手は、原作の重要な要素であるはずの俳句や句会といったものと、それらとを置き換えてしまっていたのです。本当の意味で彼らの希望や絆の象徴であったはずの俳句や句会を、実際には歌ってもいない、設定としてもだいぶ怪しい「いとしのクレメンタイン」にすげ替えているように自分には見えてしまいました。作り手が何故そんなことをしたのかは、正直なところ考えたくもないです。

■そのほか
それ以前の問題として、映像や構成としてヘンだなと思う部分も多かったように感じます。本作を撮るために、新潟でセットを作ってロケをしたのだそうですが…流石に新潟の自然風景をロシアだと言い張るのは無理がありすぎだと思います。雪が降っていればいいってものではないですよね。俘虜の面々が河原で作業をする場面があるんですけど、よくある日本国内の渓流みたいな川で愕然としてしまいました。せめて北海道で撮ることは出来なかったのでしょうか?釧路川や天塩川みたいな環境の川じゃないと違和感がありすぎだと思うんですけど…
ただ、例によって俳優陣は、作り手の注文通りに忠実に演じられていて、そこは良かったと思います。個人的に良かったなと思ったのは安田顕さんですね。主人公とも深く関わる、複雑な事情を持った姿を好演されていたと思います。それと、中島健人さんの朴訥なあの感じも、悪くはなかったです。彼の「頭の中に残ったものは誰にも奪われない」という学びが、のちのちの展開の伏線になっていた…というのは、なかなか上手いアダプテーションだと思いましたし。でも最後の方に言わせなくてもいい感動的な説明ゼリフを言わされていましたけどね。もちろん二宮和也さんも良かったと思います。病床のシーンとか、リアルだなと思いましたし。全力で主人公になろうと努力をされていたと思います。…ただ、本作でいちばん肝心な役柄であるはずのヒロインの北川景子さんは、個人的にはミスキャストだったんじゃないかなと思いました。彼女のせいではないと思うのですけど、顔立ちというか佇まいが細すぎて、しかも現代的過ぎるのですよね。もっとこの役に合う女優さんが他にも居たのではないかなと思ってしまいました。
そして構成は、やはりラストの「遺書が…?」という場面が、何も考えられずに四回連続で天丼されていく、というのが上手く感じられなかったですね。原作を読んで経緯を知っているからかもしれませんが、「あの時取り上げられちゃったのに…?」などというサスペンス要素なんて、正直なところどうでもよかったです。そういうことではないと思うので。自分だったら、むしろ冒頭に最初の一人目を置いたりして、四種類の視点から見た主人公…みたいな形で全体をまとめたのではないかなと思います。

※※

ということで、映画自体はボロクソに叩いてしまいましたが、原作本である『収容所からの手紙』は、心から読んでよかったなと思いますし、山本さんのことやシベリア抑留のことを知りたいのであるならば、むしろそちらを熟読されることをおすすめしたいと思います。
じっくりとぜひぜひ。

ここで一句
「アムールを クレメンタインに 変えられて」
季語:メンタイ→明太子→福岡→若鷹軍団→Bクラス→秋
「絶望の その先に見えた 青い空」
季語:空→雲→雪→冬
せーじ

せーじ