えいがうるふ

イニシェリン島の精霊のえいがうるふのネタバレレビュー・内容・結末

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

同年代の友人と会うと終活やら介護の話題が出る歳になってしみじみ感じるようになったことのひとつが「人間関係は深くなるほど維持より終結が難しい」ということだ。
結婚より離婚のほうが段違いに面倒くさいのはよく知られているが、恋愛感情を抜きにした友人関係であっても、ひとたび関わればもはや見知らぬ他人同士には戻れず、無理やり疎遠になるのも難しい。まして一度親密になってしまえば、離婚のように関係の終わりを法的に明文化するような方法がないぶん、どちらかが別離を望んでも相手にその気が無ければ一方的に関係を断つことは相当難しくなる。
(顔も見えないSNSですら、一度フォローしてしまったら削除しにくいと思う人が多いようだ。たまたまこのレビューを目にしたそんな心やさしい方が間違って私をフォローしたりしないよう、なるべく当たり障りある率直な文章を心がけた。気分を害したらどうかご容赦を。)


さて、まして舞台は恐ろしく閉鎖的な離島コミュニティである。日本でものどかな田舎暮らしに憧れて移住した都会の人間が過疎地ならではの異様に濃い人間関係に音を上げて逃げ出す話は珍しくない。
つまりこの作品は、表現こそ鮮烈で笑えるほど過激だが古今東西で変わらず起きている閉鎖社会の呪縛とそこで互いのエゴから破綻する人間関係という普遍的な人間ドラマを描いているのだと思う。

そして偏屈者の私はやはり、この作品ではコルムの気持ちが痛いほど分かり、ひしひしと共感してしまった。
恐らくもともとコルムとパードリックは全く価値観の合わない者同士だったのだろう。それでも出会える人間が極端に限られたあの環境で生きる以上、心から価値観・人生観を共有できる相手を友人に選ぶ贅沢など叶うはずもない。お互いに狭い世界に暮らす者同士、相手に対する不満には目をつぶり、当たり前のやさしさと多くを望まぬ妥協と忍耐でその関係に甘んじてやり過ごしてきたのかもしれない。

しかし、晩年になっても個人の本質は変わらないものだ。だからこそ、人生の残り時間を意識する頃になってはたと自分の人生これでいいのかと恐ろしい疑問を抱くこともあろう。ああミッドライフクライシス。
まさにそのど真ん中で突如天啓を受けたように「俺は芸術に生きる!」と目覚めてしまったコルムが、残された貴重な時間をもはや一秒たりとも無駄にしたくない、まずは一刻も早く退屈で下らないパードリックとの時間を終わらせなければ!と思いつめてしまった気持ちは分からなくもない。

それにしたって、あんなやり方は無いだろうと普通は非難されるだろう。
確かにコルムが最初にとった行動は恐ろしく不器用で唐突すぎた。でも、ただでさえ口下手な彼があの環境で特定の人間との関係を終わりにしたいというささやかな願いを叶えるには、ああするしかなかったのかもしれない。共に過ごす時間が苦痛になったことを長年言い出せず耐え続けた末の苦渋の決断だったのだろうことはすぐに分かった。その年月が長いからこそ、相手がどれほど言葉を尽くそうと理解できない人間であること、つまり話すだけ無駄ということを、コルムはもう分かっていたのだろう。
だから何も言わずに強硬手段に出たわけだ。話して理解を得ることは最初から諦めていたから、ただただ離れることを選んだ。ぐちぐちと相手を責めることはせず「もう嫌いになった」とただ事実だけを伝えた。さらにしつこく問われれば具体的なエピソードを出して理由の説明もしていた。しかし残念ながら、いずれもパードリックには想像もつかない発想故にまるで理解されなかった。
コルムの態度は終始一貫していて不器用なりに筋は通っていたし、その後の言動を見ていてもコルムがパードリックを憎んで絶交した訳ではないことが分かった。ただ離れたい、一人の時間と静寂が欲しいというシンプルな希望を叶えたかっただけなのだ。だからこそ、絶交中であっても相手が町中で理不尽な暴力にあっていれば手を差し伸べることだって厭わないが、だからって以前のような関係に戻りたいわけではないのだ。その姿は人間としてとても誠実だと思ったが、何しろ相手が(彼にとって)悪すぎた。

その後のコルムのあまりに過激な言動に至っては映画としては面白いがさすがにエグかった。そこには「俺は芸術家なのだ!」というコルムの奢りと歪んだ承認欲求も含まれていただろうが、デフォルメが過ぎてもはや完全に痛々しいスプラッターコメディになっていた。
ただ、これも改めて見直してみると、コルムの思いの切実さの表れと思えた。恐らく彼は、不本意とはいえ長い時間を共に過ごしたパードリックの友情をどこかで信じたかったのではないだろうか。だからこそ、わざわざそれが弦を押さえる指だと強調までして「お前が身を引いてくれなければ俺は自分の夢を諦める」宣言をするという賭けに出てしまった。パードリックがもし自分のことを本当に親友として大切に思ってくれているのなら、その本気の決意を理解し尊重して別れを受け入れてくれるのではないかと・・。
ああしかし、そのコルムの願いは虚しく散ることになる。

もちろん、パードリックは生来の悪人というわけではない。彼は無邪気な性質でもちろん彼なりに友人を大切にしてきたし、強いて言えばコルムにとっては愚鈍で退屈な人間だったというだけで、そのことに罪は無い。
冒頭でいきなりコルムに拒絶されて動揺する彼の姿はまるで、円満だと信じていた長年連れ添った妻からある日突然離婚を宣告された夫のようで、確かに哀れで滑稽だった。
だがそうした一見哀れな夫たちの多くが後に元妻の暴露により無自覚なモラハラ夫だったことが露呈するように、突然親友に絶交を言い渡された哀れなパードリックも、ただ鈍感なだけではなく無自覚にひどく自分本位な人間だったことがだんだんと別の側面から明かされていく脚本がえげつない。(「俺の食事はどうなるんだ?」「最初に聞くのがそれ?!」by シボーン)

ただ、パードリックのような自称いいヤツがやっかいなのは、本人は自分の身勝手さに自覚がなく悪気がないところだ。これはストーカー心理にも通じる恐ろしいもので、彼らは自分の善意と正当性を無邪気に信じるあまり、相手の話を全く聞こうとしない。案の定パードリックはコルムの言葉に一切耳を貸さず、相手が本気であることを身を以て証明して見せてもなおしつこく関係修復を迫り、結局は悲劇を招く。
こうした「悪気のない困ったちゃん」はどこにでもいるが、周囲はなんとなく察して距離をおいていたりする。実際、コルムを失ったパードリックの相手をしてくれるのは、皮肉にもパードリック自身が見下しているドミニクしかいないのだった。日頃は深く考えないことで自分をごまかしても、拭いきれぬ見捨てられ不安を抱えている者は去る者を追わずには居られない。まして、一度得た依存相手を失いそうになれば何が何でも逃すまいと必死ですがりつく。

ところでパードリックにはもともと何らかの知的障害・あるいは発達障害があり、状況的に彼の「お世話係」に甘んじていた人間の暇宣言を描いているのでは、という解釈もある。
それはとても分かりやすくある意味平和な落とし所だが、個人的にはそうした賞レース受け狙いの単純なテーマの作品とは思えなかった。
ただ、作品全体を通して「人が愚かであることは罪なのか?」という答えの出にくい問題提起がされているのは確かで、その点だけでも人と語り合える題材となる面白さはある。


そして、一見善良そのもののそんな彼らの心の闇に目をつけた邪悪な存在が、時に残酷ないたずらを仕掛ける。はたから見れば滑稽な、人の世の不条理。
この普遍的な人間関係の不条理がもし大都会を舞台に描かれていたら、きっとひたすら殺伐とした寒々しい作品になっていただろうが、泣きたくなるほど広い空や広漠とした美しい農村の景色の広がる離島を舞台に、その歴史的背景や民族文化を織り交ぜた演出が作品に深みと余韻をもたらし、相乗的に作品の完成度を高めている。


また、作品全体が北アイルランド紛争のメタファーなのでは?という視点も何度か頭をよぎったが、それにしては作中で描かれていた本土の紛争に対する住民の態度がまさに「対岸の火事」のようで、奇妙に当事者意識が感じられないところがひっかかった。そして、鑑賞後にそもそもイニシェリン島が架空の島であることを知り、なるほどと思った。
つまり、あくまでもフィクションであるこの作品において、本土の紛争の描写はより普遍的な主題を鮮明に浮き上がらせる背景として機能している。時代設定はそのままに架空の島を舞台とすることで、島の歴史的背景や住民たちのルーツに基づく紛争に対する島民感情などのややこしい事情は抜きにできる。そしてよりシンプルに、海の向こうの本土で大義の為に崇高に戦う者たちと、ごく矮小な個人的な諍いで血みどろの攻防をしている目の前の二人がどちらも等しく愚かな人間であることを鮮烈に表現しているように思えた。

そしてあらゆる諍いは「始めるより終わらせるほうが難しい」のは誰もが知っている通り。

さらに、第三者から見ればどうでもいいような個人的なイデオロギーの対立とお互いの居場所(領地)を巡って不毛な戦いをする男たちの影で、その争いのバカバカしさに振り回されつつも強かに現実を見据えて生きる女達が描かれていたことも、戦争との対比として興味深かった。
その一人はもちろん、争う愚かな男たちの双方にそれぞれ痛烈なツッコミをいれたシボーンである。彼女の一言でコルムはその高尚ぶった思想の浅さを、パードリックはその鈍感さに潜む加害性をあっさり暴露される。どちらのシーンも完全に「はいここ笑うとこ!!」だった。
そしてもう一人は最初からこの騒動の全てを達観していたようなミステリアスな老婆マコーミックだ。彼女の預言はそのまま、そこにはいつも愚かな人間たちの諍いに巻き込まれ命を落とす無垢なものの存在があることを観る者に悟らせる。

そして忘れてはならない重要な脇役がもう一人。無垢といえば無垢だが無邪気と言うにはかなり苦しい、しかし雑念がないぶん物事の本質を見抜いているドミニクの存在もスパイスとして絶妙すぎる。この、ボケの立ち位置から鋭すぎるツッコミをいれるという高等芸をゾッとするほど完璧に演じてしまうバリー・コーガンの恐ろしさよ・・。

最後にどうしても叫ばずにはいられない、ああ、愛しのジェニー!!
私が選ぶベストドンキーインザムービー(?)の最上位に食い込むこと間違いなしのとんでもなく愛らしいこのロバが、まさかこの作品全体のテーマに関わる重要なモチーフになっていたとは。
かといってロバ好き仲間の皆さんに手放しではお薦めできない非業な展開が待っているので覚悟されたし。うう。


面白いことに、観ていてこれは大当たり!素晴らしい大傑作!と思った作品でも、鑑賞後にはスッと冷静になりやたら細かく加点減点してしまい結局4点台に留まることがほとんどなのに、5点になる場合はなぜかいつも迷いがない。この作品のように、ただ満点以外に思いつかないから勝手にそうなる。
結局自分にとっては映画との出会いは人との出会いと同じで、客観的な映画としてのクオリティよりもその作品がどれだけ自分の嗜好や価値観に刺さるかどうかが重要だからなのだろう。人や世間がなんと言おうと好きなもんは好きだし嫌いなもんは嫌いなのだ。
したがって私の映画レビューはごく私的な個人の嗜好の記録でしかなく、私以外の人にとっては独りよがりな駄文に違いない。しかも同じく独断と偏見だけでジャッジしてきた実生活での人を見る目に関し、人生後半の答え合わせターンで無駄な自信を得たせいか、ついエラそうな断定口調に拍車がかかる今日この頃。きっと老害と言われる日も近い。