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リコリス・ピザのドントのレビュー・感想・評価

リコリス・ピザ(2021年製作の映画)
4.6
 2021年。すべてが祝福されているような映画に出会うことがごく稀にある。開始5分足らずで心臓が掴まれるような強さ、または魂を引きつけられるような力、あるいは全部が正しい場所で正しく動いているような感覚を覚える映画がある。そしてその確信めいたものは、最後までほぼ裏切られることはない。そのような映画は、確かにある。
 少年たちは学校のトイレの鏡を前におめかしに余念がない。これから学生写真の撮影なのだ。子供らしく悪口を垂れ合っていると斜め後ろの個室でイタズラ者の仕掛けた爆竹がはぜる。個室から水が吹き出る。逃げ出す少年たち。
 長い長い外廊下、写真の列に並んでいる生徒たちをカメラは奥、正面に捉えつつ、手前から細身の女が列へカツカツと歩み寄ってくる。先ほど鏡の前にいた大柄な少年が興味深げに列から体をはみ出させる。カメラは今度は彼女の歩みを横から捉えはじめる。彼女は大人で、「クシは? 髪は整えない? 鏡もあるよ」などとぶっきらぼうに生徒たちに聞いている。強気そうな顔だ。廊下のすぐ脇の庭、柔らかな太陽光の下、散水が弧を描いて芝生に撒かれている。
 ふざけた生徒が「バンザ~イ!」(日本語である)と叫びながら走ってきて彼女の背にぶつかり、そのまま去る。彼女はやる気のなさげな顔に不快感を重ねて、「何!? このアホ!」と叫ぶ。眉間に皺を寄せながら歩みを止めない彼女を、大柄な少年がすれ違いざま、「クシ、借りるよ」と呼び止める。
 ターンし、クシを渡し、不機嫌な顔のまま「バンザイ」の生徒が去った方に目をやって、彼女は鏡を持ち上げる。掲げた鏡の中には髪をとかす少年が見える。思春期らしいある種の全能感と明るさに満ちた顔だ。ここでふたりの顔がひとつの映像に収められる。柔らかな陽光、抑えた服の色味。そして余裕たっぷりに少年は言う。「ねぇ、名前は?」 少年はゲイリー、女はアラナ。ふたりの物語はこのようにしてはじまる。
 この2分足らずの冒頭を、自分は一度しか観ていない。それでも鮮やかに、これらの映像は頭の中に焼きついている。劇的ではない。さりげなく、流れるように、美しく、記憶の中に刻印されている。本編は125分ほどか。濃淡はあれども、ひとつひとつのシーンを鮮やかに思い出せる気がする。本当にきちんと記憶しているかどうかはこの際、問題ではない。この映画はそんな気持ちにさせる映画だ。
 コチコチに作り上げてガッチリ織り上げた恐怖恋愛劇『ファントム・スレッド』から次はどうするPTA、と思っていたらこの明るさ、軽さを見せられた。心底参ってしまった。ふたりの物語は無鉄砲に、無責任に、行き当たりばったりに、一部にご迷惑をかけつつ、蹉跌はあれどギリギリのところで都合よく進んでいき、そして最高の時に終わる。そんな旨い話があるか、とは言わせない。断じて言わせない。跳ねるように生き生きとした映像、甘い音楽たち、何よりふたりのつかず離れずの幸福な関係には、そのくらいのテキトーさと肯定感がふさわしい。強さ、力、正しさではなく、おおらかで、ゆるやかで、とろけるような気持ちよさが全体に溢れている。すべてが祝福されている。映画というのは、本当に素晴らしい。
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