海

カマグロガの海のレビュー・感想・評価

カマグロガ(2020年製作の映画)
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「人が畑に入るときほど美しいものはない」と作中で語られたとき、わたしが毎日のように聞いているラジオ番組のパーソナリティが、都会に住む人から地方へのある批判を受けた日に、「今のあなたは田舎には何もなくて、都会には何もかもあると思うのかもしれないけれど、あなたが社会で自分よりも優れた人間に出会って打ちのめされたときに、あなたを癒してくれるのは自然だけよ」というようなことを言っていたのを、ふと思い出した。わたしの住んでいる町は、2時間に1本ほどしか電車は来なくて、坂も多いから車がないと暮らしていけなくて、本屋もレンタルショップも映画館もないほどの町だけれど、それでも毎朝歩くたびに、何かが確かに変わっていくのを感じる。数年前まで畑だった場所にはずらっと太陽光パネルが並んでいて、山と空を隔てるような道路の建設は少しずつ進んでいる。今年の秋までは、ススキや芙蓉が生い茂り(まだセイタカアワダチソウの侵食が比較的少ない場所だった)、スズメバチやホシホウジャクの幼虫や大きなツマグロヒョウモン、エントモファガグリリに感染したバッタの死骸も見かけていた空き地は、今植物も昆虫も皆いなくなって、建物の建築が進んでいる。単純に、さみしいとおもう。わたしはさみしい。そこで見ることができていた虫や鳥たちがどこに行くのかを知らないことも、そういう空き地を持て余していた人の思索や決断も、ぜんぶ外から見ていただけのわたしが、たださみしいとおもう。都市化はすすんでいく。止めたいと望む人の声はごく少数で、多くの人は、生きものの生活する場所を奪うことがかれらを殺すことだということや、作業の自動化が今までそこにあった誰かの手を払いのけているということから、目を逸らして生きているし、生きていく。わたしたちの目に触れる場所から農耕地がどんなに減っても、それが完全に終わることはあり得なくて、農業は今、海の中でも行われようとしていて、海水やレゴリスと呼ばれる月の土壌で野菜を育てる研究も進んでいる、それでも、鍬を握る、日光に長いあいださらされて焼けた手だけがわたしの目にうつることがある。長く長くやってきた農業という、この世で最も美しい仕事を、手放そうか、諦めようかと考えている、ということの重みを、土とコンクリートを交互に見ながら、思い知る。違う、思い知っているという気分に浸る。肌を焼く夏が去れば雨とともに秋がくるように、まだあかい花が落ちれば土壌動物がそれを食むように、道ばたで死んだ一匹の蛇にたくさんの蟻がむらがるように、破壊と再生は繰り返すだろうか、減っていくばかりの部屋をまた満たせる日がくるだろうか、この大地の抱えている何かはわたしたちにとっての問題だろうか、あなたを泣かせる悲しみはわたしにとっても悲しみだろうか。大丈夫だって信じ続けなければならないことがある、大丈夫になるようにと手を添え続けなければならないことがある、それでもいつも最も苦しんでいる人だけが苦しみ続け、わたしたちはいつでも彼らを見放せる場所から何もかも見通しているってふりをする。わたしが絶対に言わないと心に決めていた言葉を、誰かが外から眺めながら簡単に言いのける、わたしがそのひとにだけは絶対に言わせたくなかった言葉を、何年も何年もかけて、そのひとが言う。今そういうことばかりがある。収穫の近づいた小麦畑の匂いや、月の出ている夜に、田んぼの水面で月の光がゆらゆらとゆれること、大きく育った木だけが落とせる繊細でやさしいかげ、いのちをあつかうひとの何よりもうつくしくあたたかい手、わたしにとって言葉をおそわるのとおなじだった。そのすべてを知らなければ、そのすべてをわかることはできなかっただろう。
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