青山祐介

裁かるゝジャンヌの青山祐介のレビュー・感想・評価

裁かるゝジャンヌ(1928年製作の映画)
4.8
『主の名においてアーメン。ここに記載するところは、さきに我等の裁きにより断罪された
俗称 “乙女(la Pucelle)”なる女に対する信仰の審理の記録である。』
ジャンヌ・ダルク処刑裁判1431年

○カール・テオドア・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」1928年 フランス映画
原題:La Passion de Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルクの受難)
ジャンヌ・ダルク:ルイーゼ・ルネ・ファルコネッティ
○「Jules Quicherat, Procès de condamnation et de Réhabilitation de Jeanne d’Arc dite la Pucller, 5vol, Paris, 1841-1849~ジャンヌ資料集(五巻)」― 高山和彦編訳「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」白水社2002年
ドライヤーのジャンヌ・ダルクは、いままでの英雄伝説や聖女伝説の映像化でも、また文学的な創造の作品でもありません。パリの国立古文書館に保存されている処刑裁判記録からジャンヌの言葉と心を読みとり、人間としてのジャンヌ、その純粋な信仰の本質を描き出そうとしています。ドライヤーは映画会社が依頼した小説家ジョセフ・デルテイユの脚本をあえて使わず、ジャンヌの言動を記録した原資料(彼が参照したのはラテン語をフランス語に翻訳したもの)を重視し、独自の脚本に着手しました。そして、この歴史的な傑作が生まれたのです。
時代はトーキーになろうとしていました。この映画がドライヤー最後の無声映画になります。無声映画であるからこそ、ジャンヌの影と心の深さを描くことができたのでしょう。ドライヤーの独特のリアリズムと無声映画でなければなしえなかったであろう前衛的な手法が、新しいジャンヌ・ダルク像をつくりあげたのです。仰角で撮影された、「論理の矛盾を突くことのみに長けた」司教、異端審問官、教会参事会員などの、断罪の声が聞こえてきます。ジャンヌの顔の映像、悲しみ、恐れ、涙、そしてその清らかさに胸がうたれます。1431年1月9日から5月30日の処刑までの29回にわたる審問を1日に凝縮したことが心の緊張感を高めます。
『汝、俗称“乙女”ことジャンヌは、分派、偶像崇拝、悪魔の祈祷、その他多くの悪業により、様々の過誤および様々の罪に堕ちてる…』と告発されます。乙女(処女性を誇る傲慢さ)、分派(唯一の聖なる公教会を信ぜず、教会の統一と権威をないがしろにする)、偶像崇拝(聖ミカエル、聖マルグリット、聖カトリーヌを偽った邪悪且つ悪魔的精霊に由来する啓示)、多くの悪業(天使の尊厳を傷つけ暴政を唆す危険な欺瞞)、様々の過誤(親不幸、自殺未遂、良俗に背く男の服装)、様々の罪(イエズス、マリア、十字の印の使用等)。
ジャンヌ・ダルクは明快に答えます『私は地上にある教会を信じています。ただし私の言動に関しては神にお任せしています。』
ルネ・ファルコネッティは、〈俳優〉の演技ではなく、ブレッソンの〈モデル〉でもなく、〈乙女la Pucelle〉ジャンヌなりえました。この映画史に語り継がれる名演をのこしながら、その後一本の映画にも出演しなかったファルコネッティの心の変化を知ることができます。無声映画であるにもかかわらず、炎のなかのジャンヌが最期に叫ぶ「イエズス様」の言葉が現実に聞こえてきます。そして、耳に残って消えることはありません。ジャンヌ・ダルクは地上の教会からは断罪され、天の教会に迎えられました。

『ドライヤーはジャンヌ・ダルクが最も恐ろしい変形の一つの犠牲であったことを証明しようとした。政府とか教会とかほかのどんな名で呼ばれようと、神の原理が人間たちの脳を通ったために起こる変形の犠牲であることを。』
火刑台上のジャンヌにサン・ソヴール教会の十字架をかざす、聖職者の中で唯一の味方であった、ジャン・マシューの役で出演したアントナン・アルトー(ジャン=ルイ・ブロー/安堂信也訳「アントナン・アルトー」白水社 1976年
青山祐介

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