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秘密の森の、その向こうの海のレビュー・感想・評価

秘密の森の、その向こう(2021年製作の映画)
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冬の日の夕方、母が台所に立ってお米をといでいて、捲っていた袖が落ちてくると、「海ちゃん、ママの袖直してくれる?」とわたしを呼ぶ。その頃、まだわたしは母よりもずっと背が低くて、まだ母の手にも顔にも皺ひとつなかった。台所の白い蛍光灯に照らされながら、母の横に立って、触れていたセーターの袖と冷たい腕のことを、たまに、ふと思い出す。悲しくてひとりにしてほしかったとき、戻ってくるまでわたしを待ってくれていたひとがいたこと、これからどうなるのかわからなくて不安だったとき、これからどうなるとしてもこれまでのあなたを愛しているからついていきたいと言ってくれたひとがいたこと、目に見えないものについて語ることの難しさに泣いてしまったとき、目に見えるやりかたで表すならどんなふうだろうと笑って手を握ってくれたひとがいたこと、暗く冷たい部屋の床に狐色の陽が差すように、夏の虫の亡骸がやがて木を育てるように、わたしは常にだれかの愛の中でこの身を守られてきた。わたしたちが、どんな姿でもおなじようにわたしたちであるのなら、わたしは幼い頃の姿でもう一度母に会い、そして今の心で、母を抱きしめてあげたいとおもう。夜、スーパーマーケットで、手のひらの真ん中にいつのまにかできていたほくろを握って、「そっか、わたしは幸せになるんだね」とふざけて言ったとき、母は立ち止まってわたしを見つめて、「幸せになれるに決まってるでしょ」と笑って言った。愛されることから逃げることは許さない、そう言われているみたいだった。わたしにとって、いつも世界は醜くて、大き過ぎる。そしてわたしはとても小さく、無力だけれど、それでもあなたは、わたしをそうじゃなく扱う。小さくもなく、無力でもない、大きくて、立派で、世界そのもののように、わたしを扱う。あなたがわたしを見るとき、わたしはたった一人になる。今まで抱きしめられてきたように、それとまったくおなじように、いつかわたしもあなたを抱きしめるのだろうか。そしてわたしが抱きしめてあげたように、またあなたがわたしを、つよく抱きしめてくれるのだろうか。生きているかぎり、わたしは愛の中にいて、だれかをこの愛の中にむかえいれる、それは生きているかぎり、あなたと共にいるということなのだとおもう。
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