【「音」を撫でる、「音」と戯れる】 コンサート映画は単にライブを収録するものではない。常に「映画的」と向き合い、ライブが持つ一回性の陳腐化と闘わねばならない。また、ライブ映像とコンサート映画の差を明確にしなくてはならない。私のオールタイムベスト常連であるトーキング・ヘッズの『ストップ・メイキング・センス』は、この手のコンサート映画が「映画的」を意識するあまりやりがちなインタビューという付加価値を排除し、ライブ映像だけで勝負する。ライブとの違いを魅せつけるために、観客の完成は極限まで抑え、縦横無尽に動き回るデヴィッド・バーンやバックコーラスの歌姫の身体表象を舐めるように映す。これにより、段々と仲間が集まり「Life During Wartime」で最初のクライマックスを迎え、そこから儀式的第二幕へと移りバイブスの灯火を絶やさず終わる最強のライブの旨味だけが抽出されるのだ。 さて、話を戻そう。
『TRIPPING WITH NILS FRAHM』は、観客が介入できない「音」と戯れる男ニルス・フラームの目線を徹底的にフレームに焼き付ける傑作コンサート映画だ。1曲目「Fundamental Values」。アルバムでは、「Enters」「Sunson」で助走をつけてから「Fundamental Values」に入るのだが、本作は映画なので1発目からメインディッシュを持ってくる。
曲が終わると、周囲が明るくなる。観客が彼を取り囲んでいた事に気づく。そうです。このコンサートは『坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK : async』と同様のスタイルの狭い空間でニルス・フラームを取り囲みながら聴く代物だったのだ。映画は、ニルス・フラームが「音」を撫でる事に没頭している様を正確に捉えている。『坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK : async』ではノイズの世界に没入する坂本龍一の心象世界を、実験映像で表現してしまう誤魔化しがあったのだが、本作はニルス・フラームを捉える事だけに専念しており、これが高評価の鍵を握っているといえる。
熱気を帯びる「Fundamental Values」を冷ますように「My Friend The Forest」を挟んで、「All Melody」を展開する。ここでは旋律がまるで宇宙空間を漂う惑星のように複雑な弧を描き、やがて彼方から銀河を覗きこむような美しさを纏う。そして、その宇宙に酔いしれる人をさり気なく捉えていく。このさり気なさは『ストップ・メイキング・センス』でも使われたテクニックだ。あくまで主役はミュージシャンであるが、コンサート映画としての現場の熱気をアーカイブする必要もある。最小手数でバイブスが上がった現場を捉える演出に舌鼓を打つのだ。
彼が音楽を演奏している姿を映すだけには留まらず、カメラは観客の様子も映す。音楽が形成されるにつれて観客もリズムに乗り始め、身体を揺らしたり立ち上がったりする観客も現れる。音楽が最高潮に達した瞬間、会場は一体となり、立ち上がって踊り始める...彼の音楽が何百人もの観客達の神経に接続されるあの瞬間! 長谷川白紙が「ライブは観客が自由に踊れる空間を形成するのが目的」(うろ覚え)と語っていたが、まさにその例を見せつけられたような感覚で凄まじい。 ニック・ケイヴの『This Much I Know to Be True』は観客が一切排除され、証明やカメラを用いて映像パフォーマンスとしてのライブを最高な形で作り上げていたが、対称的に本作はそれらの映像的なパフォーマンスを排除して演奏と音楽、そして観客の様子も含めた上での映像作品に仕上がっていると感じた。 面白かった!