せーじ

浜の朝日の嘘つきどもとのせーじのレビュー・感想・評価

浜の朝日の嘘つきどもと(2021年製作の映画)
3.0
311本目。今回は少し、違う角度から雑談的に書いていきたいと思います。

■映画館で映画を観る「意味」とは
自分は『この世界の片隅に』を20回観たことで、映画を観る趣味に目覚めたのですが、それまでは「映画なんて、何処で観てもだいたい同じだろ、何が違うんだ?」と思っていました。

それが全っ然、違っていたのですよね。

20回観る中で色々な映画館に行ったのですが、観る作品は同じなのにそれぞれの映画館で観た鑑賞体験が全く違っていたのです。それは何故なのかというと、設備的な意味で違うという表面的な理由もそうなのですけど、そもそも「その映画館に赴いて観る」という体験自体がそれぞれ異なっていたからなのですよね。当たり前な話ですけど、自宅からその映画館まで行きつくルートがそもそも違いますし、ルートが違えば記憶として残る体験も違ってくる訳です。朝イチの回やレイトショーなど、観る時間帯で変わってくることもありますし、観る前や観た後に何をしたかによっても変わってきます。つまり、映画館は「そこにある」というだけで、そもそも大きな個性がある文化施設なのですよね。そして当然「そこでしか観れない作品がそこにはある」ことや「その映画館を使うことでしか味わえない鑑賞体験がある」というプライオリティがあったりすれば、映画そのものの鑑賞体験と映画館の利用体験が「記憶」や「思い出」として強く深く結びつくことになります。これが「映画館で映画を観る」ということについての、意味であり価値なのではないかなと自分は思うのです。

■「手段を選ぶことが出来る」という豊かさ
かつてNHKで放送されていた『クイズ面白ゼミナール』という番組で、司会である鈴木健二アナウンサーが、乗り物の発展を題材としたクイズの回の最後に「様々な乗り物を自由に選ぶことが出来る世の中になるといいですよね」とおっしゃられていたことがありました。(確か、番組の最後の方に鈴木氏や専門の先生がその回で取り上げたことについて、講義のようにお話をするコーナーがあったのですよね)自分はその考え方、言葉だけが実感を持たずに記憶に残っていたのですが、「映画を観る」という趣味に目覚めてから、そのことを強く意識するようになったのです。
そりゃ映画なんてイマドキ家でだって自由に観れますし、インターネットを使えば、観たい映画が簡単に探し出せますよね。観る時間がなければ区切ったり倍速で観たっていいので、映画館と違って時間的に拘束されることもありません。それに家でなら映画を観てる途中にメモをとったり寝転んだり、喋ったり、スマホを使っていたりしても迷惑がかからないですよね。そして何より、出歩かなければ感染するリスクも確実に下がる訳です。
合理的に考えれば「映画館で映画を観る」というのは、現代社会においては非合理でコスパの悪い方法であると言わざるを得ないのかもしれません。でも、でもですよ?そういう方法が、というよりそういう方法"も"「選べる」ということ自体にそもそも「豊かさ」があるのではないかなと自分は思うのですよね。そして先に書いたように、その方法にも、その方法ならではの「価値」が絶対にあるはずなのです。
コンテンツが滝のように流れ、滝壺のように溢れている現代社会において、価値のある作品をどう探してすくい上げるべきなのか。そして「映画館で映画を観る」ということについて、それ以外の方法では成し得ない「価値」を、どうやって活かしていくべきなのか。そこが、これからの映画館に問われていく課題になるのではないかなと自分は思っています。

※※

と、言うようなことを考えていくべき作品なのに、そこがとても薄かったのが残念だったなと思います。というより本作で描かれている朝日座の姿は、実際の朝日座が歩んだ道のりとは全く違うのですよね。朝日座を題材にするのであるならば、もっと朝日座の歩みを忠実に描いていっても良かったのではないかなと思います。それが作り手の伝えたいことに合わないのであるならば、今まさに現実の状況に晒されている違う映画館を取り上げた方が良かったのではないかなと思いますね。

ただ、高畑充希さんや大久保佳代子さんの演技は、まあまあ良かったです。色々とセリフで語り過ぎでしたけど。。。
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